スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

大殿ss




地鳴り、雄叫び、火薬のにおい。
土埃が風に巻き上げられ、視界を覆っては、蒼すぎる空に散る。
高揚する身体を意思で捩じ伏せ、男は紫の瞳を細めた。
眼前に倒れ伏す敵軍の軍師は、死に逝く道すがら、奇妙な色を宿した目で男を眺めていた。

毛利の乞食に飼い殺されるか、憐れな犬め。

胴を割られ、上と下が泣き別れていると言うのに、斬った相手へ心痛するとはずいぶんとまぁ剛毅なことである。
死にかけが一匹、最早何の脅威にもなるまいと、男は屍の検分を始める。
将、将、足軽、忍びに、旗持ち、たくさんの首、首、首、首。
大漁である。
士気を上げ、将を討ち取り、本陣から目を逸らす囮となれとの元就の命には、充分応えられただろう。
男は薄い唇をにんまりと歪め、物言わぬ死骸に太刀を振るう。
ようやく全ての頭を落とし一息吐くと共に、男は先程訳の解らないことを口走っていた軍師の首をぞんざいに持ち上げ、しげしげと見詰めた。
言葉の無い声で、答えの無い問いを投げ掛ける。
飼い殺さるるは、果たして憐れなりや、と。






はた、と意識が浮上し、男は頭を振るい睡魔を払った。
主の著作の冗長さと射し込む日の暖かさに、ついつい微睡んでしまったらしい。
身動きがとりづらいのは…と紫の瞳を下に向ければ、胡座をかいた腿の片方をこれ幸いと枕にし、元就がぴすぴす寝息を立てている。
口許がある辺りがねとりと湿っぽいのは、そういうことなのだろう。
色々と緩すぎやしないだろうか、この御隠居は。


抗議の意を込め、顎の髭を指先で摘まみ、引っ張ったり捩ったり好き勝手もてあそぶと、うひゃあ、だか、ふやぁ、だか妙な声を上げて元就が目を覚ます。
あくまで頭は従者の太股から離さずに、主は垂れ気味の目をむぅっと寄せ、寝ぼけた声で酷いじゃないか黒、と。

ひどいのはどちらだ、きながしがよだれでべとべとしている

掌が遠すぎるため頬につらつらと文句を書けば、こそばゆいよと元就が身を震わせた。
楽しそうで何よりだと溜め息を吐く男の腰に腕を絡め、元就は黒狼の脚へ頬を擦り寄せる。
孫までいる男とは思えぬ仕草に、黒狼の手が元就の頭を撫でた。
珍しく結われていない、あちこち跳ねた白く長いくせっ毛を浅黒い指へ絡ませ、男は先程の夢を思い出す。
元就の髪がまだ黒く、髭を蓄えていなかった時分の戦だったか。


「どうしたんだい、黒狼」


光の加減によっては金色にも見える薄い茶色を眠たげに瞬かせ、元就は黒狼を見上げた。
身を屈め、ぽてりとした涙袋へと唇を寄せ、戯れる。
くすくすと漏れる元就の笑みに、黒狼は人差し指を筆にした。


とうにんにとってしあわせなことなのに、なぜほかからみればふこうとなるのか


見えない縄でがんじがらめにされていることも気づかず、憐れなものだと軍師は言った。
罵りというよりはむしろ悲哀に満ちたその言葉が、どうにも理解できない。
飼われているか否かで言えば、与えられた録を餌と食み、首に巻かれた見えない縄を元就に引かれる黒狼は、歴戦の勇士と渾名されているが正しく毛利の狗である。

黒狼、君はいま不幸せなのかい。
ほんの少しだけ眉尻を下げて途方に暮れたような表情をした寂しげな老人の呟きが、黒狼の胸を締め付ける。
違う、幸せだ、幸せなのだ。
怖いくらいに。
ふるりと首を振り、情けなくへたる元就の眉を唇でやわく挟む。
ちうちうと顔中に拙い口付けをし、繋いだ手の指を絡め強く握れば、同じような力で握り返され己でも理解しがたい衝動に突き動かされる。
考えるうちに堪らなくなり、黒狼はほうと息を吐き出した 。
手のひらではなく読唇を、と絡め合った拳に軽く接吻し、物言えぬ歴戦の勇士は声なき言葉を元就へと捧げる。

守りたい国があり、尽くしたい家があり、亡くしたくない人があるだけの話を、軍師と言う生き物はどうしてそう難しく考えたがるのか。
まったくもって不思議に思う。
飼われることは不幸せなだけだと、一体誰が断言できる。


すらすらと流れる無音の声に元就は眸を少しだけ大きくし驚いた顔をしたが、すぐに眉尻を下げて、まるで泣き笑いのような表情を作った。
後ろ髪を引かれつつも、固く結ばれた手をほどき、黒狼は人差し指で元就の掌を掻く。
いくら言葉が出ないと言えども、口にするには少しばかり気恥ずかしさが勝るのだ。


あきがすき
もうりがすき
あなたがすき


ほっとしたように顔色をゆるめる元就の、涙袋に縁取られた眦が熱を帯びたように赤く色付く。
それだけでもう、充分である。
それ以外知らなくていいし、知りたくもない。


あなたがあれば、それがじぶんのさいわい


だ、と綴り、締め括ろうとした黒狼の後ろ頭が元就に囚われる。
とろけるような眼差しでぽつりと『ありがとう』と囁き、元就は黒狼と唇を重ねた。



鍵の無い檻の中は、今日も心地のよい幸せで満ちあふれている。

はかりがみにさんししを






「待てよ、死ぬ…か。いや、そうだ、私は死ねば良いんだ」


よし死のう、すぐ死のうと歓ぶ元就に、男は素早く両腕を伸ばし元就の腕を掴んだ。
力任せに引き、させないとばかりにぎゅうぎゅう抱き込み、肩口に額を擦り付け嫌だ嫌だと首を振る。
駄々っ子勇士に埋もれながら、元就は黒狼の背に手を回し、落ち着かせるようぽんぽんと撫でさすった。


「よしよし、違うよ黒狼、私と君を死んだことにするんだ。隆元、二人とも死んだことにしてくれ、そうすれば歴史に集中できる」


あれ、俺も?
いつの間にか頭数に数えられていた黒狼は、元就の肩から頭を上げようとしたのだが、物凄い力で押さえつけられ身動きがとれなくなった。
なんとか拘束を解こうともごもご身悶えるが、やがてぐったりと力を抜く。
振り払うこともできるのだが、そうすると元就を傷付けてしまうかもしれないので、こうなった以上大人しく抱かれる他に術はない。
諦めた黒狼に気を良くしたのか、逞しい肢体を全身くまなく良い子良い子と撫で回し、元就は呆けている息子へ、そこはかと無く黒い物を滲ませた顔でにっこりと微笑む。


「欲を捨てて義を守り、兄弟で仲良く国を治めてくれ。私は黒狼と死人になるから」
「歴戦の勇士殿まで道連れに!?」
「黒狼を一人にするなんて…そんな酷いことはできないよ。かわいそうじゃないか」
「父上は黒狼殿を一体なんだとお思いなのですか…」
「何って…黒狼は私の黒狼だろう?」


極自然に黒狼を抱えたまま、爽やかにその場を辞そうとする元就を隆元が必死に止めたことはまた別の話である。


【これは拐かしですか、いいえ逃避行です】

さんししのはな





今日は名前を漢字で書こうか。
己の隣をぱすぱすと叩き黒狼を呼ぶ元就に、呼ばれた男は訝しげな目を向けた。
紫の瞳が二つ、積み上がった書と、地図と、手紙の山を往復し、やがて疲れの滲む元就の顔へ定まると、黒狼の凛々しい眉が情けなくへたる。
連日の政務で疲れているのだ、邪魔をするようなことはできない。
すっかり常套となった掌への訴えは、黒狼、と珍しく正しい名を呼んだ元就の、悄気た声に遮られる。



「君に字を教えることは、私の大切な息抜きなんだよ。それなのに君は、老い先短い年寄りから、数少ない楽しみを奪うつもりなのかい?」



酷い子だ。
責められるように締め括られた言葉が、穏やかな瞳を悲しみに歪ませている。
黒狼は慌てた。
こんなにも善い人を苛めてしまったと自責の念に駆られながらも、心の端っこがちょっと待ってほしいと叫びを上げている。
なぁ、これ、俺は全く悪くないんじゃないか、と。
元就に負担をかけたくないと遠慮したはずなのに、いつの間にか悪者にされてしまっている気がするのだけれども、気のせいだろうか。
ちらりと元就を窺えば、ああだこうだと悔いている黒狼を満足げに眺め、してやったりと笑っているので、大正解だ。
酷い人だと形作られた唇を知らんぷりし、元就は黒狼を隣へと座らせた。
仮名を教えたときのようにぴたりと張り付き、手をとって筆を滑らせるが、前とは違い、書かされたのはたったの六字だった。
漢字とは、数の多いものではないのか。
元就に寄越される文にも、散乱する地図にも、冗長でつまらぬと立花の当主に放り投げられた著作にも、読めはしないがたくさんの字が書かれていた事は解る。

紙を汚さぬよう筆を置き、元就の手をとって、これだけかと問う黒狼に、元就はこれだけで良いんだよと薄く微笑んだ。


「黒狼、これは君の名前だ。くろい、おおかみ、強くて逞しい君に良く似合っている。それからこれが毛利元就、私の名前だよ。漢字はこれだけを覚えなさい。この二つさえ解っていれば、あとは仮名で手紙を書けるから」


これ以外覚える必要はないと言い切った元就に、何となく釈然としない思いを抱きつつ筆を墨へと浸すが、『元就』と上手に書く度に元就から誉められ、『黒狼』と上手く書く度に良い子良い子と頭を撫でられるので、まぁ、いいか、と。
褒美だよと手ずから喰わされた大福をもごもごと味わいながら、黒狼は己の名を眺めた。
くろう、黒狼、くろいおおかみ、強くて逞しい、と元就から誉められた、元就から贈られた黒狼だけの名前である。
くろう、くろう。
言葉にしようとすれば、うおううおうと獣の唸りが漏れるだけ。
瞬間じわりと心の臓辺りを焦がした熱に、黒狼は胸元を握り締める。
言ってみたかった、口にしてみたかった。
叶うことはないのだけれど。




【さんししのはな】
(柄にもなく泣きたくなってしまったなんて、滑稽にも程がある)

はかりがみにさんししを





文字を覚えようか、黒。
小難しそうな顔で小難しそうな文を読んでいた元就は、疲労の色濃いとろりとした瞳で傍に侍る男を呼んだ。
忙しそうな女中に、殿へお渡しください黒様と饅頭を餌に御願いされた茶を届けてから半刻程の事である。
ありがとうと笑った元就がどうにも疲れているような気がして、何となく辞する機会を失い書斎へ残ってしまったが、気晴らしに目を付けられてしまったらしい。
くろ、くろ、おいでおいで。
馴染みつつはあるものの、未だ他人行儀な響きの名を呼ばれ、男は気恥ずかしさにもじもじと大きな身体を揺らした。
しかし己は確か『くろう』と名付けられたはずなのだが、何故この殿様は猫か犬を呼ぶように名前を縮めるのだろう。
小首を傾げつつ、招かれるままに元就の隣へと腰を下ろす。
元々あまり大きくない文机は、黒と呼ばれた偉丈夫と歳の割には引き締まった体つきをしている元就でみっちりと埋まってしまった。
さあ筆を。持ち方はわかるかい。
弓を使うと言う元就の白い手が、男の武骨な浅黒い手をそっと握りこむ。
利き腕を抑えられ、本能的に身を強張らせる歴戦の勇士を宥めるように、元就はぽややんとした笑顔で有無を言わせず筆を握らせた。


いろはにほへとちりぬるを、御手本となる文字を書き損じた紙へすらすらと流れるように記す元就の手に、男の目は釘付けである。
尊敬と興奮を湛えた紫水晶が二つ、元就の顔と、手と、生み出される文字を忙しなく往き来する。
小さくはくはくと動く唇を読めば、すごい、きれい、もとなりこうすごい、と心からの言葉が次々溢れてくるようだ。
浅黒い肌を薄赤く染め、きゃふきゃふと歓ぶ己より逞しい大男に、疲れきっていた殿様はふにゃりと相好を崩す。
おべっかを知らない男の反応は、すべからく心からの物であることを元就はよく理解していた。


手本を真似、懸命に筆を動かす男の姿纏う空気は戦場に臨むかのごとくである。
一文字一文字慎重に、ふるりと筆先を震えさせながら、初めて手習いを受ける子供のように男は紙を埋めてゆく。
少しふやけた文字を見て、元就の手本をむっと睨み、唇をへの字にして、ええいもう一度と気合いを入れる。
元就は時折手をとってやり、力加減や筆の流し方を教えた。
一枚一枚書き終えるごとに上手くいったと誇らしげに紙を掲げ破顔する男が、余多の戦場を震え上がらせた歴戦の勇士だと、一体誰が思うだろうか。
もう一度我が子を育てているような、誰にも馴れぬ大型の獣にごろごろと懐かれているような、そんな不思議な心持ちに、いつの間にか疲れなどは吹き飛んでしまった。
良くできました、可愛い可愛いと頭を撫でれば、男ははっとした表情で慌てて唇を引き結び、うっすらと紅い目元のまま『私ははしゃいでいませんよ』と澄まし顔を作るものだから余計に和んでしまう。

黒狼を誘い込んだ草には、後で相応の褒美をとらせなければならないな。
紅い墨で大きく丸をつけてやれば、そわそわと落ち着き無く男の身体が揺れる。
きっとこの後、屋敷の人間を捕まえては、さりげなくを装い元就からの丸を自慢するのだろう。
そうして息子や孫たちに頭を撫でられ、皆の心を鷲掴むに違いない。
初めは男の図体に敬遠気味だった居城の者も、今や老若男女問わず男を見かける度にくろくろおいでと呼び止め、雑事を頼んではお礼にと甘味や食べ物を与えているのだから、男の馴染みっぷりは推して知るべしである。
これで男が何処かの間者なら、大したものだと手放しで称賛を送るしかないが、残念ながら黒狼は基本猪武者なのでその心配はない。
加えて百戦錬磨の歴戦の勇士はどうしてだか元就を気に入っており、ひっきりなしに送られてくるあちらこちらからの誘いの手紙を文字に飢える隆景へ見せては、片っ端から焚き火にくべて二人で芋を焼いているようなのでこれまた安心である。
ついでに焼いた芋は居城の皆に振る舞われている。
十割全部を信用に置いているわけではないが、気を張らずともよい相手として重宝もしている黒狼は、本当に良い拾い者だった、と。
穏やかな空気に微睡んでいる元就の手が、不意に持ち上げられた。

どうかしたのかいと問う元就に黒狼は唇を綻ばせ、肉豆の潰れた跡が残る元就の掌へ、そっと人差し指を滑らせる。



あ、り、が、と、う



照れたように俯く黒狼の微笑みに、元就は己の血が逆流したような錯覚を受けた。
取られていない方の手で口許を覆い、ばくばくと暴れる鼓動を落ち着かせようとするも、眼前で心配そうに首をかしげる黒狼を見るとどうにも上手くいかない。
じわじわと熱くなる頬に、改めてとんでもない拾い者をしてしまったと困ったような顔で微笑み、元就は黒狼の手を握った。



【おてがみ】

はかりがみにさんししを

※大殿×舌無しガチムチエディット主♂
※歴戦の勇士幼少時捏造で大勢になんやかんやされてる系の非人道的な部分あり





最も古い記憶は、粗末な小屋で縄に繋がれ、無遠慮に揺すぶられる、ただひたすらに不快なだけの物である。
げらげらげらげら、もっと穴を閉めろ、歯ぁ立てたら殺すぞ、誰のお蔭で生きていられると思ってるんだ、忌み子の癖に、価値の無い畜生以下の化け物め、生意気に泣きやがって、使っていただいてありがとうございますだろうが、美味そうにしゃぶれよ下手くそめ、げらげらげらげら。
板を張り合わせただけの簡素な檻の中、舞い上がる土埃に煙る日の光が場違いに色鮮やかなその場所で、村中の男が十にも満たない痩せこけた身体に群がり、下卑た面で薄汚れた子供を貪る。
むしゃむしゃ、もぐもぐ、げらげらげらげら。
いたいいたいやめてくださいゆるしてくださいおねがいしますゆるしてくださいたすけてくださいおねがいしますいたいやだやめてくださいごめんなさいごめんなさいいたいやだやだいやだやだぁだれかたすけておねがいやめてたすけてたすけてやめてぇええやだいたいよぉおたすけてだれかやめてゆるしてゆるしおねがいしますゆるしてくださいこわいこわいよぉやめてくださいゆるしてやだやだやだやだああああゆるしていやだやだごめんなさいいたいこわいいたすけてやめてやだいやだやだぁあああああ"あ"あ"あ"あ"!!!!!
うるさい雀めと舌をちょん切られ、猿ぐつわを噛まされ、さんざん殴られ蹴られ犯され痛め付けられた忌み子は、空を舐める巨大な紅蓮の焔が、戦に負けた村をめらめらと呑み込む様を光の無い虚ろな眼で眺めていた。
忌み子に名前はない。
人取りの奴隷であった母親は化け物を産んだと何処かへ連れていかれたそうだし、父親は村の中で転がる黒焦げの誰かだったのだろうが、忌み子には関係の無い話である。
ぱちぱち上がる火の粉を潜り抜け、炭になった大人を蹴転がし、焼け爛れた小さな塊を踏み砕き、忌み子は屍を漁る。
錆びた刀を手に取り人を殺し、戦場を渡り歩き人を殺し、生きるために人を殺し、泥水を啜り腐肉を喰らい、いつしか歴戦の勇士と呼ばれるようになった、とある子供の話である。







山に蔓延る賊を根絶やした、ある日の事だ。
お礼にと渡された姫飯を頬張る大きな男へ、一人の小男が声をかけた。
それほどの腕を持ちながら根無し草だとは勿体無い。
安芸の小大名の元へと仕えてみないか。
人好きのする顔を張り付けた牢人風の男に握らされた紙片を矯めつ眇めつ眺めながら、男は米粒のついた指先を歯でぐにぐにとこそいだ。
日暮らしの傭兵よりは、まともな暮らしができるだろうか。
戦の前の大盤振る舞いを目当てにあちらこちらの戦場を転々としてきたが、御馳走にありつける時とそうでない時の落差には辛いものがある。
屋根のある寝床で朝と昼にきちんと二回、腹一杯米を食べられるのなら、飼われることも吝かではないと男は思う。
加えて年に何度か、白い米と肉と魚を口にすることができるのなら、武功だろうが首級だろうがいくらでも捧げてやろうぐらいの気概である。

人をどうこう言える立場ではないが、よっぽどのひとでなしでなければ尻尾を振って腹を見せよう。
さてさて安芸とはどちらだろう、と。
身の丈ほどの太刀と火縄を軽々背負い、六尺四寸程の筋骨逞しい男は未だ見ぬ安芸へと足を踏み出した。







こちらでお待ちくださいと通された書斎で、男は『はふん』と欠伸を噛み殺した。
緊張の糸は、とうにぷつりと切れているのだから仕方がない。
薄い唇を一文字に結び、浮かんだ涙を武骨な指で拭った。
目通りを待てと言われて待ったは良いが、男は、もうかれこれ四刻程ほったらかされている。
足の踏み場もないほど乱雑に積み上げられた書の一冊を恐る恐る摘まんで捲ってみるも、蚯蚓がのたくったような線ばかりですぐに飽きてしまった。
文字が読めればなにかと便利だろうが、教えてくれる人も居なければ教わるような場も無い上に、今のところたいして不便もないので結局後回しである。
そう言えば確たる名前も無かったような気がするが、仮にあったとて、何処の合戦でも『おい』とか『そこの』とか呼ばれるのだから必要ないだろう、と、また一つ欠伸を押し潰す。
橙色の陽光に響く烏の物悲しい声に潮時かと腰を浮かせた男の背後、書の山がもこりと崩れ、一人の男が寝癖だらけの頭を出した。



「やぁ、しまった!ちょっと寝のつもりが、寝過ごしたかもしれん」



睡魔に抗いきれていないぽややんとした顔付きの男は、誰に向けてか、「今日は新参の人と目通りの予定なんだ、間に合っていれば良いけど」と呟き、しきりに眠気眼を擦っている。

間に合うもなにも大遅刻も良いところなのだが。

本の山より這い出る人物から目を逸らせないでいる男の視線と、ようよう脱出に成功した男の視線がかちりと絡んだ。
傾いだ烏帽子に、癖のある白髪混じりの黒い髪。
一見すると年若いようにも思えるが、笑みの形に固定された薄い唇の横や目尻に刻まれた皺が、男を老練な国主であると知らしめている。
穏やかな雰囲気の中で一際男の目を引いたのが、ぽってりとした涙袋に縁取られている酷く柔和な一対の瞳であった。
水気が多いのか、瞳の色が広いのか。
重たげな一重目蓋がゆったりとまばたく毎に薄茶の虹彩が光を取り込み、潤んだそこがきらきらと輝く。
なんと綺麗な眼であろう。
待たされた苦い思いも何のその、男はいっぺんでこの小大名を気に入ってしまった。
これはとても善いものである、と囁く本能に、全くだと嘆息する。
貴方が元就公か、音を出さず唇だけで言葉を紡いだ男に、読唇の心得があるらしい毛利家当主は微妙な笑顔でおずおずと頷いた。



「んー、じゃ、ま、目通りってことで、当主らしく、訓示でも垂れておくかな」



ぴしりと背を正した元就に釣られ、男も崩した足を正しく直す。
穏やかな声音でつらつらと並べられる長い話をまとめれば、要するに色々な利益のために死ぬなと言うことなのだろう。
死にたくないから生き続けている男にとっては、願ったり叶ったりの雇い主である。
長々と続く冗長な話に水を注すわけでもなく、うんうんと相槌を打つ男へ、元就の双眸がふと細められる。
言葉を知らないわけではないようだね。
探るような色が薄茶の瞳に宿るを見て、男はかぱりと大きく口を割った。
夕陽に照らされた男の咥内には、中程より少し手前で無様に千切れた御粗末な舌の肉片だけが遺されている。
息を詰め目を丸くする元就へ気にするなとばかりに手をひらつかせ、男は視線を遮るようにあむりと口を閉じる。

痛かっただろうね。
身を乗り出し、悲痛な面持ちで眉を垂らす元就の、ほっそりとした指が男の唇をなぞった。
痛かったような気もするが、生憎昔々のお話過ぎて良く覚えていないのだ。
食い物の味があまり判らないのは残念だが、喋りたいと思うような友が居るわけでも、情を交わした相手が居るわけでもない男には、言葉の有無など大した問題ではない。
労るような指先をやんわりと押し返し、貴方がそんな顔をする必要はないと男は静かに首を振った。
困ったような顔で笑った元就は、気まずさを誤魔化すように男へ名前を尋ねたが、今度は男が目を丸くする番であった。
僅かに残された舌の根が乾かぬうちに、名無しの権兵衛である事実がさっそく不便を運んできたなんて。
これは参った、なんと名乗れば良いのだろう。

目に見えて困惑しだした男に、元就は小さく笑みを溢す。
丸太のように引き締まった手足の、目算で六尺四寸は有るだろう大きな身体を目にしたときには、随分と怖そうな偉丈夫だと心を固くしてしまったが、言葉が無いぶん身振り手振りで感情を伝える様は小さな子供のようで、見ていて微笑ましい。
しゅんと項垂れた男の頭をついつい撫でてしまい、しまったと笑顔のまま冷や汗を流すが、当の男は不思議そうに乗せられた手の下から元就を見上げるだけである。

浅黒い肌に、癖のない黒い髪。
精悍な顔付きの中で異彩を放つのは、その瞳だ。
濃い色の紫水晶を、まあるくくりぬいたら、このような色になるのかもしれない。



「そうだね…君さえよければ、私が君に名前をあげるよ」



男の唇がふるりと戦慄く。
くれるのなら貰っておくと素っ気なく頷いた男は、贈り物を今か今かと待ち受ける子供のような瞳で元就を見詰めた。



【謀神に山梔子を】
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2014年12月 >>
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31