今日は名前を漢字で書こうか。
己の隣をぱすぱすと叩き黒狼を呼ぶ元就に、呼ばれた男は訝しげな目を向けた。
紫の瞳が二つ、積み上がった書と、地図と、手紙の山を往復し、やがて疲れの滲む元就の顔へ定まると、黒狼の凛々しい眉が情けなくへたる。
連日の政務で疲れているのだ、邪魔をするようなことはできない。
すっかり常套となった掌への訴えは、黒狼、と珍しく正しい名を呼んだ元就の、悄気た声に遮られる。



「君に字を教えることは、私の大切な息抜きなんだよ。それなのに君は、老い先短い年寄りから、数少ない楽しみを奪うつもりなのかい?」



酷い子だ。
責められるように締め括られた言葉が、穏やかな瞳を悲しみに歪ませている。
黒狼は慌てた。
こんなにも善い人を苛めてしまったと自責の念に駆られながらも、心の端っこがちょっと待ってほしいと叫びを上げている。
なぁ、これ、俺は全く悪くないんじゃないか、と。
元就に負担をかけたくないと遠慮したはずなのに、いつの間にか悪者にされてしまっている気がするのだけれども、気のせいだろうか。
ちらりと元就を窺えば、ああだこうだと悔いている黒狼を満足げに眺め、してやったりと笑っているので、大正解だ。
酷い人だと形作られた唇を知らんぷりし、元就は黒狼を隣へと座らせた。
仮名を教えたときのようにぴたりと張り付き、手をとって筆を滑らせるが、前とは違い、書かされたのはたったの六字だった。
漢字とは、数の多いものではないのか。
元就に寄越される文にも、散乱する地図にも、冗長でつまらぬと立花の当主に放り投げられた著作にも、読めはしないがたくさんの字が書かれていた事は解る。

紙を汚さぬよう筆を置き、元就の手をとって、これだけかと問う黒狼に、元就はこれだけで良いんだよと薄く微笑んだ。


「黒狼、これは君の名前だ。くろい、おおかみ、強くて逞しい君に良く似合っている。それからこれが毛利元就、私の名前だよ。漢字はこれだけを覚えなさい。この二つさえ解っていれば、あとは仮名で手紙を書けるから」


これ以外覚える必要はないと言い切った元就に、何となく釈然としない思いを抱きつつ筆を墨へと浸すが、『元就』と上手に書く度に元就から誉められ、『黒狼』と上手く書く度に良い子良い子と頭を撫でられるので、まぁ、いいか、と。
褒美だよと手ずから喰わされた大福をもごもごと味わいながら、黒狼は己の名を眺めた。
くろう、黒狼、くろいおおかみ、強くて逞しい、と元就から誉められた、元就から贈られた黒狼だけの名前である。
くろう、くろう。
言葉にしようとすれば、うおううおうと獣の唸りが漏れるだけ。
瞬間じわりと心の臓辺りを焦がした熱に、黒狼は胸元を握り締める。
言ってみたかった、口にしてみたかった。
叶うことはないのだけれど。




【さんししのはな】
(柄にもなく泣きたくなってしまったなんて、滑稽にも程がある)