まばたきもせず真っ直ぐ降り注がれる視線に、震える指で一枚一枚千円札を手渡して行く。
財布から取り出した五枚の紙っぺらが、臆病者の私にとって最期の生命線だ。










「お前ほんっとめんどくせーよな!」


ゲラゲラと笑う幼馴染みの向こう脛を無言で蹴り、冷えたビールを煽る。今日は月に三回しかない回収日だったのに、どうしてこの男の絡み酒に付き合っているのだろう。


「んな顔すんなよ。しかたねーだろ、社長は他の客んトコ回ってんだからよ」


喉を鳴らし焼酎を飲み干す柄崎に解っていると息を吐き、焼き鳥をかじる。
解ってる、私は闇金から金を借りた債務者であり、彼は金を貸した側だ。わかっている。


「第一、なんでウチから金借りたんだよ」

「まぁ、色々…」

「どーせ社長に会いてぇだけなんだろ。お前頭いいのにそういうトコほんとバカだよな!」

「柄崎くんデリカシーって言葉知ってる?」


呂律の怪しくなってきた柄崎の笑い声に頬をひきつらせながら、コップへおかわりを作る。気が利くじゃねーかと頭をぐしゃぐしゃに撫でる手をぞんざいに払うが、当の本人は気にする素振りもなく上機嫌に一升瓶を減らし続けている。
恐らくそろそろ潰れるであろう幼馴染みの赤ら顔を横目に、店員へタクシーを頼んだ。
調子に乗り易い上に、カっとなり易く、ついでに負けず嫌いであり、チンピラ気質だけど芯は強い。冷たく見えるかもしれないが懐へ入れた相手への情は驚くほどに深く厚い、母親思いの強面な男。
そんな柄崎と知り合ったのは小学生の時分である。チビで体の弱かった私はガキ大将だった彼と家が近く、良くイジメっ子から守ってもらったものだ。
学年が進むにつれ世間一般の男女の幼馴染みと同じように疎遠になり、中学の頃には不良と委員長なんて立場で相対する事になったものの、彼は結局一度も私に手を上げなかったし、子分のクラスメイト達にも手を出さないようにと言い含めていたらしい。
にゅっ、と伸びてきた厳つい腕に肩を捕らわれ、引き寄せられた。本人の趣味なんだろう個性的な洋服の柄と切り揃えた顎髭が視界に広がり、酒精の薫りが鼻先を擽る。
じわじわと互いを侵食する熱に酔ってしまいそうだった。


「…良い男になったねぇ、柄崎くん」

「ばーか、俺は元々良い男だっつの」


お前は昔は可愛かったのによ…と昔を強調しぐちぐちと管を巻き始めた柄崎の体を支えるよう座り直し、ぬるくなったビールを舐め適当に相槌を打つ。
チビのお前が俺の後ろチョロチョロ着いてきて可愛かった、ランドセルに殿様ガエルを仕込んで大泣きされたときは母ちゃんにぶん殴られた、アオダイショウ持って追っ掛けてお前が田んぼに落ちたときは母ちゃんにしこたま雷落とされた、学校の帰り道に何も無い所で転んで怪我したときはおんぶして家まで連れて帰った。
出るわ出るわ、自分でも覚えていないような思い出がポロポロと酔っぱらいの口から零れ落ちてくる。変なこと覚えてるね。思わず漏れた微笑みに、柄崎は目を柔らかく細めコップを煽った。

社長が来て俺もお前も変わったよな。
しみじみと呟かれた一言に胸が疼く。そうだね、と返した声は震えていなかっただろうか。

丑嶋 馨。

終わりの見えない初恋の相手である。
小学生の頃から朧気に存在していた恋心が急激に形となったのは、中学二年生の時だ。手のつけられない悪ガキに育った柄崎の仕切るC組へ丑嶋が転入してきた日、柄崎の悪ふざけに啖呵を切った丑嶋の姿が鮮烈に脳へと焼き付いてしまった。


「リンチした日、ウシジマ病院連れてったのも、お前だったもんな…」

「…柄崎くんも連れてったけど?」


柄崎の口調が砕け、【社長】が【ウシジマ】に変わる。限界が来たらしい幼馴染みへ肩を貸し、力を込めて立ち上がった。気を抜くと潰されそうになるが、根性で耐える。鞄から財布を取り出そうとした手は、ぐでんぐでんの酔っぱらいに止められた。
ケツのポケットに財布あっからよぉ、払っとけ。
むにゃむにゃと今にも寝てしまいそうな柄崎に自分の分は出すと抗議してみるものの、俺に恥かかせるんじゃねーよと耳元で囁かれてしまえばどうしようもない。ごちそうさま、柄崎くん。ためいき混じりの礼におぅと笑い、柄崎はタクシーのシートへ体を沈めた。
隣に乗り込み柄崎の住所付近を運転手へ告げれば、タクシーは静かに夜の街を走り出す。
窓ガラスに映り込むネオンをぼんやりと眺め、思い出すのはボロボロになった少年の姿である。塾の帰り道、金属バットを持って笑い合っているクラスメイトに嫌な予感がして、溜まり場になっていた神社へ向かえば案の定、意識の無い血塗れの丑嶋を見付けたのだ。
輪郭が曖昧になるほど腫れた顔に、流れる血は頭からなのか顔からなのか、もはや区別もつかない。ぼろ雑巾の方がまだましである。
あの時は冗談でなく心臓が止まった。震える体に鞭を打ち、覚束ない足取りで横たわる体へ恐る恐る近寄った。ほとんど泣きじゃくりながら耳を当てた左胸が、弱々しくもしぶとく脈を打ち続けていると判った時の安堵は計り知れない。あまりにも動転していたからか、駆けつけた救急車へ一緒に乗せられた事も今となっては良い思い出…だろうか。
その後退院した彼にお礼参りされた柄崎をたまたま発見し、またまた救急車を呼ぶ羽目になるとは思いもしなかったが。


「…口の中ずたぼろだったよねー、柄崎くん」


人の肩へ頭を預け、ぐうぐうと寝息をたてる柄崎の幸せそうな寝顔を突つく。
捩じ込まれた電球を割られたと聞いたときには、良くそんなもの入ったなと自分の口を押さえたものだ。

目的地へ到着したタクシーへ支払いを済ませ、柄崎の頬をぺちぺちと叩く。寝ぼけ眼で何事かを唸る男を運転手と共に社内から引きずり出し、アパートへえっちらおっちら歩き出した。
キーケースの鍵で年期の入ったドアを開け、リビングへ踏み込む。重すぎる荷物から解放され大きく息を吐いた所で視界が反転し、タバコのヤニでくすんだクリーム色の天井が見えた。熱っぽい吐息が聞こえる。逆光で、男の表情は判らない。あぁ、酔っているなあ。


「柄崎くん、重「俺にしとけよ」


何をするわけでもなく、譫言のように柄崎が呟く。腕を拘束するわけでも、服を剥く訳でも、唇を重ねるわけでもなく、ただ静かにこちらを見据える男へ困ったように笑った。間もなく鋭い眼差しが瞼に隠れ、柄崎の体が崩れ落ちる。本格的に寝落ちたらしい男の下から這い出し、万年床の毛布をかける。


「やだよ、柄崎くん、女グセ悪そうだし」


台所周りを片付け、ゴミを纏め、散らばった衣服を畳む。これで今日の飲み代ぐらいにはなるだろうか。
眉間にシワを寄せ眠る柄崎の枕元へ水と二日酔いの薬を置き、鍵を閉めてポストへ入れる。柄崎の性格だ、たぶん明日には覚えてないだろう。

流しのタクシーを拾ってあくびを噛み殺す。酔いは疾うにさめてしまった。
柄崎の昔話に引っ張られたのだろうか、断片的な情景が浮かんでは消えてを繰り返す。
鑑別所から出た丑嶋に、一度だけ会ったことがある。竹本の都合が悪い時に兎を預かってくれたお礼を言いに来た彼へ、咄嗟に好きだと口走ってしまったのだ。橙色の夕焼けに染まる土手の上で、何も言わずに背を向けた丑嶋の背中を見ていることしかできなかった。

自室へ帰り、ベッドに転がる。次の返済日は10日後、10日で5割の利息を払い続けて何ヵ月経ったのか。
再び丑嶋と再会したのは、街で取り立て中の柄崎と鉢合わせた時だ。お前、委員長か?目を丸くした男が幼馴染みだと判った時の驚きが理解できるだろうか。なんだあの服、ヤクザかと思った。
意識の無い債務者を引き摺ったまま、久しぶりだなと破顔する柄崎へ声をかけたのが丑嶋だ。
まばたきの少ない黒く鋭い目、まっすぐ延びた背。眼鏡と髭で面影は薄れてしまったけれど、間違いなく、丑嶋馨その男だった。
社長覚えてます?中学ん時の委員長っすよ。懐かしそうな柄崎を横目に、丑嶋の目が反らされることはなかった。あぁ、覚えてるよ。記憶よりも低い声が鼓膜を揺らし、夕暮れの橙が脳裏に甦る。一分も経っただろうか。行くぞ柄崎、そう言ってくるりと背中を向けた丑嶋へ、咄嗟におかしなことを口走った自分はそろそろ反省した方が良い。

「あの!おかね!」

貸し…て、と。
あの時の丑嶋や柄崎の顔は、もう思い出したくもないし、何かしらの切っ掛けが欲しかったのなら今更ながら選択肢を間違えた気がしてならない。


「…俺は個人的な金の貸し借りはしねぇ。客としてならウチは10日で5割だ」


高ぇぞ。
腹の底を揺らす威圧的な声、慈悲の欠片も無い丑嶋の瞳にひゅう、と喉が鳴った。ここで躊躇えば次はない、もう二度と会うことはないだろう。見送るだけの時代は過ぎた。
震える拳を握り、光のない双眸を見詰める。


「貸して下さい、お願いします」


そうして今に至るのだ。
鞄にぶら下がる、古びたお守りの中に仕舞われた一万円札が使われる日は恐らく来ない。10日で5割、ひと月に3回千円札を握り締め闇金の扉を潜る。月いちまんごせんえんの恋は、私を何処へ向かわせるのだろうか。





【死滅回遊】


柄崎→女主→丑嶋