文字を覚えようか、黒。
小難しそうな顔で小難しそうな文を読んでいた元就は、疲労の色濃いとろりとした瞳で傍に侍る男を呼んだ。
忙しそうな女中に、殿へお渡しください黒様と饅頭を餌に御願いされた茶を届けてから半刻程の事である。
ありがとうと笑った元就がどうにも疲れているような気がして、何となく辞する機会を失い書斎へ残ってしまったが、気晴らしに目を付けられてしまったらしい。
くろ、くろ、おいでおいで。
馴染みつつはあるものの、未だ他人行儀な響きの名を呼ばれ、男は気恥ずかしさにもじもじと大きな身体を揺らした。
しかし己は確か『くろう』と名付けられたはずなのだが、何故この殿様は猫か犬を呼ぶように名前を縮めるのだろう。
小首を傾げつつ、招かれるままに元就の隣へと腰を下ろす。
元々あまり大きくない文机は、黒と呼ばれた偉丈夫と歳の割には引き締まった体つきをしている元就でみっちりと埋まってしまった。
さあ筆を。持ち方はわかるかい。
弓を使うと言う元就の白い手が、男の武骨な浅黒い手をそっと握りこむ。
利き腕を抑えられ、本能的に身を強張らせる歴戦の勇士を宥めるように、元就はぽややんとした笑顔で有無を言わせず筆を握らせた。


いろはにほへとちりぬるを、御手本となる文字を書き損じた紙へすらすらと流れるように記す元就の手に、男の目は釘付けである。
尊敬と興奮を湛えた紫水晶が二つ、元就の顔と、手と、生み出される文字を忙しなく往き来する。
小さくはくはくと動く唇を読めば、すごい、きれい、もとなりこうすごい、と心からの言葉が次々溢れてくるようだ。
浅黒い肌を薄赤く染め、きゃふきゃふと歓ぶ己より逞しい大男に、疲れきっていた殿様はふにゃりと相好を崩す。
おべっかを知らない男の反応は、すべからく心からの物であることを元就はよく理解していた。


手本を真似、懸命に筆を動かす男の姿纏う空気は戦場に臨むかのごとくである。
一文字一文字慎重に、ふるりと筆先を震えさせながら、初めて手習いを受ける子供のように男は紙を埋めてゆく。
少しふやけた文字を見て、元就の手本をむっと睨み、唇をへの字にして、ええいもう一度と気合いを入れる。
元就は時折手をとってやり、力加減や筆の流し方を教えた。
一枚一枚書き終えるごとに上手くいったと誇らしげに紙を掲げ破顔する男が、余多の戦場を震え上がらせた歴戦の勇士だと、一体誰が思うだろうか。
もう一度我が子を育てているような、誰にも馴れぬ大型の獣にごろごろと懐かれているような、そんな不思議な心持ちに、いつの間にか疲れなどは吹き飛んでしまった。
良くできました、可愛い可愛いと頭を撫でれば、男ははっとした表情で慌てて唇を引き結び、うっすらと紅い目元のまま『私ははしゃいでいませんよ』と澄まし顔を作るものだから余計に和んでしまう。

黒狼を誘い込んだ草には、後で相応の褒美をとらせなければならないな。
紅い墨で大きく丸をつけてやれば、そわそわと落ち着き無く男の身体が揺れる。
きっとこの後、屋敷の人間を捕まえては、さりげなくを装い元就からの丸を自慢するのだろう。
そうして息子や孫たちに頭を撫でられ、皆の心を鷲掴むに違いない。
初めは男の図体に敬遠気味だった居城の者も、今や老若男女問わず男を見かける度にくろくろおいでと呼び止め、雑事を頼んではお礼にと甘味や食べ物を与えているのだから、男の馴染みっぷりは推して知るべしである。
これで男が何処かの間者なら、大したものだと手放しで称賛を送るしかないが、残念ながら黒狼は基本猪武者なのでその心配はない。
加えて百戦錬磨の歴戦の勇士はどうしてだか元就を気に入っており、ひっきりなしに送られてくるあちらこちらからの誘いの手紙を文字に飢える隆景へ見せては、片っ端から焚き火にくべて二人で芋を焼いているようなのでこれまた安心である。
ついでに焼いた芋は居城の皆に振る舞われている。
十割全部を信用に置いているわけではないが、気を張らずともよい相手として重宝もしている黒狼は、本当に良い拾い者だった、と。
穏やかな空気に微睡んでいる元就の手が、不意に持ち上げられた。

どうかしたのかいと問う元就に黒狼は唇を綻ばせ、肉豆の潰れた跡が残る元就の掌へ、そっと人差し指を滑らせる。



あ、り、が、と、う



照れたように俯く黒狼の微笑みに、元就は己の血が逆流したような錯覚を受けた。
取られていない方の手で口許を覆い、ばくばくと暴れる鼓動を落ち着かせようとするも、眼前で心配そうに首をかしげる黒狼を見るとどうにも上手くいかない。
じわじわと熱くなる頬に、改めてとんでもない拾い者をしてしまったと困ったような顔で微笑み、元就は黒狼の手を握った。



【おてがみ】