そろそろ寝ようかと布団を敷いた途端、携帯が鳴った。
ワンコールで切れてしまった呼び出し音に画面を開き、私は財布を引っ付かんで家を出た。
なるべく明るいところを全速力で走り、バスに乗る。
程無くして到着した目的地の病院は、時間が時間であるためか周囲に人影がない。
緊急搬送用の出入り口から漏れる光と街灯を頼りに、裏口の鉄格子をゆっくりと開いた。
こつこつと窓ガラスを指先で叩けば、勢いよく開かれたカーテンの向こうで、パジャマ姿の幸村くんが口をあんぐりと開け私を見ていた。
「来ちゃった」
「来ちゃった、って…そんな、軽く…」
「えっと、電話くれたよね」
「…どうして俺だって判ったの?公衆電話だったのに」
「なんとなく。入院中って、夜とかなんか心細くなるから」
よっこらせ、と窓枠を越えて病室へ侵入する。
幸村くんの頬は、赤みを帯びて少し腫れているようだった。
「よく、入ってこられたね」
そんなところから、と苦笑する幸村くんにへらりと笑顔を返す。
あっちこち上ったり降りたり大変だったが、この道を見付けたのは私ではない。
「覚えてる?私が此処に入院してたとき、三人で病院抜け出して大騒ぎになったこと」
「…覚えてるよ。君が桜を見たいって言った日、真田が主犯で、君を連れ出したっけ」
季節は春で、桜が咲いていた。
テレビで流れたお花見がとても羨ましかった私は、うっかり見たいと呟いてしまったから、さあ大変。
「ちょっとした独り言だったんだけど、弦一郎が任せろって張り切っちゃって…夜にこっそり窓から脱走してさ」
「うん、俺もノリノリだった。でもバレて母さん達に物凄く叱られたよね」
「そうそう。あのときの逃走経路、また役に立つなんて思ってなかったけど」
幸村くんをベットへ押し込んで、丸いすを拝借する。
青みがかった瞳を伏せながら、幸村くんは手術の事や病気のことを教えてくれた。
私が知らなかったことも、みんなとのやり取りも、お医者さんの言葉も、全部。
吐き出すように語り終えた彼は、震える声で、もしかしたらもう二度とテニスが出来ないかもしれないんだ、と言った。
黙って話を聞いていた私に「ねえ、俺はどうしたら良い」と問い掛けた幸村くんへ、眉根を寄せる。
「幸村くん、意地悪だね。本当はもう、どうするか決めてるのに、そんなことわざわざ聞くんだから」
「…どうして、そう思ったの」
「長い付き合いだし、何か決めたんだろうなってことは何となくわかったよ。吐き出してスッキリしたがってるようにも見えたし」
「参ったな」
あーあ、と。
枕に顔を埋めた幸村くんは、穏やかな声音で「今日真田に渇を入れられたんだ」と自分の頬を指差した。
「全力だったでしょ」
「それはもう。お陰で目が覚めた。俺は、手術を受ける」
「…そっか」
「真田に叱られたら、何故か君の声が聞きたくなってね。気付いたら電話していたんだ」
ひらりと伸ばされた幸村くんの手を、両手で握る。
最後に見た時よりも細くなった幸村くんの手は、力強く私の手を握り返した。
根拠のない安堵が胸に広がる。
私は幸村くんの瞳を見据え、リクエストにお答えすることにした。
「幸村くんなら、大丈夫。手術は成功するし、リハビリも乗り越える。一月後には立海のコートに立って、またみんなと一緒にテニスが出来るよ」
私は目を閉じて、祈るように幸村くんの手を額へ当てた。
暑い暑い夏のコート、芥子色のジャージをはためかせた幸村くんの微笑む様が、ありありとまぶたの裏に浮かび上がる。
もう一度大丈夫と唱えた私に、
花が綻ぶような笑顔で、幸村くんはありがとうと笑ってくれた。
【幼馴染みと彼女の話】
「うわちゃ、弦一郎からだ。寝てると思ったのに…」
「バレたの?」
「ん、今から迎えに来るみたい…何で私が此処にいるってわかったんだろう…」
「あいつ、勘が良いからね」
「怒られるかなー…」
「その時は俺も一緒だよ」
「…なんだか昔とはアベコベだね」
「そうだね。…ねえ、真田が着くまで此処に居てくれないかな」
「もちろん」
「手も、このままで」
「いいよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
(おかえりなさいまで、あとちょっと)