何故なんて聞かないでくれ
噎せ返るような闇の間を縫いつつ進める脚がぴたりと止まる。
誰の物かももう判らない血飛沫の向こう側、見慣れた懐かしい姿が有った。
別れたときより濃さを増した隈が縁取る鋭い双眸、凪いだ其処に時折混じる、仄暗い情に目眩を覚える。
何もかもが変わってしまった中で吐き捨てられた口癖に、変わらぬ心根を感じつい笑みを零してしまう。
「お久しぶりですね先輩」
「…ああ、息災そうだな」
生臭い血糊を拭い忍装束に擦る。
ふと黒い其れが紺の色に変わった気がして目を見張るが、気のせいだった。
高ぶる神経を宥め賺し正面の男へ身体を向ける。
「ご活躍の程は聞き及んでいます」
「お前は、随分と名を馳せているようだな」
「仲間殺しの悪名ですがね」
なんともない風に見上げた夜空で、雲に隠されていた月が煌々と光っていた。
動きづらい云々以前に見事な満月だと思う己は、忍に向いていないのだろう。
頻りに此方を伺うような視線を投げかける元先輩へ張り付けた笑みを浮かべた。
濡れ衣か。
苦渋の滲む声で呟かれた言葉に何も応えずただ男を見返す。
「終わったことですよ」
全ては終わったことだ。
手酷い裏切りを受けたことも、腹癒せに国を潰したことも、何もかも。
もう一度終わったことだと言うと、男は精悍な顔つきを僅かに歪めた。
「今は気楽に生きています。新しい傭兵部隊も組織したのですよ。城付きなんてもう時代遅れだ。如何でしょう先輩、俺と一緒に行きませんか」
「バカタレ、野盗になんぞなりやがって」
「飼い殺されるのは性に合わないだけです。先輩は…忍組頭ですか、随分な出世ですね。首輪に繋がれているなら、喰い千切ってあげましょうか」
「余計なお世話だ、俺はまだ死ねないんでな」
「相も変わらず、強気ですね」
まぁそこも魅力的ですが。
軽口を叩き首筋に伸ばした指が、乾いた音を立て払い除けられた。
息を吸い、吐く。
何時からか死臭以外嗅ぎ取らなくなった鼻では、男の匂いは判らなかった。
其れを残念に思いつつ、踵を返す。
もう二度と会うことはないだろう。
不思議と、胸の内は穏やかだった。
「…お喋りになったもんだな」
泣き虫だったお前が、と。
何を悼んでいるのか、潜めた声で男が言った。
眉間に皺を寄せ、溜息を吐く。
「おしゃべり序でに聞いて下さい。俺、夢があったんですよ潮江先輩。どっか遠くの、誰も知らないような片田舎で、日にも月にも怯えることなく、畑なんか耕して」
昼も夜も無くただあんたの隣で馬鹿みたいに笑って騒いでと続けようとして、止めた。
叶いそうにねぇから諦めたよと苦笑し、男へ目を遣る。
「一緒にいきませんか」
静かに首を振った男から顔を逸らし、闇の奥へと歩を進める。
背に投げられた呼び掛けが何だったのか、終ぞ知ることはなかった。
【嗚呼素晴らしき忍生】
(貴方と共に、)
(行きたかった)
(生きたかった)
(逝きたかった)