※いつかの奇術師



耳が可笑しくなったようだ、もう一度言ってくれないか。
眼前で咽びながら頼むと震えた友人へ一瞥もくれることなく、青年は形の良い眉を寄せ、重々しく紅い唇を開いた。


「先生と一つになりたい。下世話な言い方だと抱きたい、セックスしたい。仮面を外して顔中にキスして恥じらう先生の先生をぱっくりしたい。そうしたら先生はきっと泣いちゃうから愛してるっていってまたキスして抱き締めてもうダメ、いや、むり、と泣くまでどろどろに甘やかして愛して溶かして蜂蜜みたいに濃密でショコラのように甘ったるい夜を胸焼けするまで過ごしたいよぉおおおおおお!」
「止めろ悪かった僕が悪かったからもう止めてくれ僕は君の口からそんな品のない言葉を聞きたくなかった!」


君の!イメージを!考えてくれ!
顔を青ざめ周囲へ素早く視線を巡らせる友人の掌が、噴火した青年を宥めるようにふらふらと宙をさ迷う。
なんだなんだと顔を出し始めた好奇心旺盛なプリマの卵たちへ、オペラ座一の色男と名実ともに名高い青年はいつものように綻び一つ無い完璧なスマイルを向け、何でもありませんとその場をあしらった。
きゃあきゃあと響く少女たちへ騙されていますよお嬢さん方と内心溜め息を吐き、ラウル・ド・シャニュイは感情の読めない瞳でアルカイックスマイルを浮かべ続ける友へ視線を向けた。


「はは、見苦しい真似を晒してしまった。取り乱してすまなかったな、シャニュイ子爵」
「何故だろうな、君の笑顔がとても胡散臭く思えてならないよ」


先程の失態など無かったかのように優雅な仕草でティーカップを口許へ運ぶ青年は、オペラ座に所属する歌手の一人であった。
正確に言えば彼はオペラ座のモノではなく、怪人の愛弟子であり所有物だ。
背の中程までに伸ばされた黒髪はビロードのように艶めき、オニキスの如き瞳は象牙色の肌と相成って青年のエキゾチックな雰囲気を存分に引き立てている。
予想と違わず小さな極東の島国生まれであると言う青年は、流暢なフランス語で思考の海で溺れるラウルを現実へと引き戻した。


「考えてもみてくれ子爵、君なら、十余年あまり想い続けたいとおしい人が、風呂上がりのバスローブ一枚で、こちらへ無防備な姿を見せているとしたら、どうする」
「いや、どうもなにも」
「君の天使に置き換えて考えてくれ」
「クリスティーヌはそんなはしたない真似はしない」
「頭の固い男だ、夫婦だったらとは考えんのか」
「う、ん、それなら……まぁ、辛いなぁ」


長い足を組み替え大袈裟なゼスチャーでそうだろうと頷く青年は、無駄に格好がついていて少し腹立たしい。


「相手にその気はないんだ、子爵。私はあの人の可愛い生徒で、あの人は私の先生だ。あの人は私の師であり、父であり、兄である。あの人にとって私はいつまでも可愛い弟子、可愛い子供、可愛い生徒、可愛い弟……」
「君は少し自意識過剰の気があるな」
「事実だ。そう先生が仰った。『私の可愛いトーヤ、可愛い私のトーヤ』そうやっていつも私を誉めてくださる」


眼尻を薄紅く染めうっとりと
遠くを、厳密には彼の天使とラウルの天使がレッスンを行う地下の小部屋を見詰める友に溜め息を吐き、ラウルは冷めた紅茶を口にした。
想いを伝えはしないのかい、と問えば、困ったような顔で笑った青年は出来ないよと呟く。
言ってしまったら嫌われる、泣き出しそうな黒い瞳がゆらりと揺れた。


「先生に拾われたあの日から、先生は私の全てになった。私の世界を作ったのは先生だ、『私』を作り上げたのは先生だ。私にとって、神様とは先生のことなんだ、そんな神様に嫌われてしまったら、私は生きていけない」


あの人に嫌われたら、私はしんでしまうよ、子爵。
叱られた小さな子供のように身を縮ませ唇を噛む友人へ、ラウルはかけるべき言葉を見付けることが出来なかった。


【内緒話をしよう】
(なら我慢するしかないな)
(知っているかシャニュイ子爵、それは生殺しと言うんだ)