※近藤×医者(♀)
Fly Me to the Moon
まばらな訪問客が途絶えた午後三時、女は固まった背をうんと伸ばし、小さく息を吐いた。
市中見廻りが一番隊だったからだろうか、本日はいつにも増して患者の数が多かったように思われる。
ふんぞり返る隊長さまは別格として、屈強な男たちがばつの悪そうに身を縮めている様子はなにやら可愛らしい物であるが、健康ならそれに越したことはないのだ。
打撲が三人、斬り傷が二人、バズーカによる火傷が五人、毎度毎度生傷の耐えない方達である。
日誌を閉じて、女は平たい腹を手のひらで擦った。
備品の点検をしていた助手を呼び、休憩を伝える。
小腹がすいたからおやつにしよう。
そう笑った女に、小柄な女顔の男は花の咲くような笑顔を浮かべた。
「今日は何にしましょうか先生、えっと確か、原田さんからフィナンシェを頂いたんですよ。この前の山崎さんからのマカロンも未だ手付かずですし、局長さんから頂いたチョコレートと副長さんからのおはぎ、も…」
ぎゃああああ!
きゃあああぁあきらくん痛い、眼球は痛いぞ晃くん!?
うるせぇよストーカーまた不法侵入しやがったな!?
いそいそと菓子棚を開いていた甘党の助手と誰かの叫び声となにかを殴打する鈍い音に、女は顔を上げた。
やけに可愛らしい悲鳴の癖、とても野太い、とても聞き覚えのある声だ。
女は口許を緩ませ、ぎゃんぎゃんと侵入者に噛みつく助手の後ろから棚を覗き込む。
一体どうやって入ったと言うのだろう、とても狭い菓子棚には、がたいの良い男がすっぽりと収まっている。
「こんにちは、近藤さん」
今からお茶にしようと思ってたんです。
はにかみながら頬を染め、一緒にいかがですかと問いかける女に、狭い空間にみっちりと詰まった男は身をよじらせながら快諾の意を示した。
ちょっと待ってくださいね、今出ますから!あれ、出れないな、ぬぐぐぐぐ、ちょ出れな、あれぇええええ!?
ガタガタと戸棚を揺るがしながらようやく抜け出せたのだろう大男がずるりと出てくる様は、まるでホラー映画のようだ。
夢に出たらどうしてくれるんだこのゴリラが、と。
着地に失敗し潰れたカエルの断末魔のような声を出した男を冷たい目で見下ろしながら、助手は盛大に溜め息を吐いた。
先生にも困ったものだと胸中呟きながら、助手は自らの湯飲みと夫婦茶碗へとお茶を注いだ。
貰い物の茶請けを盆に乗せ戻ってみれば、そこはすでに二人の世界である。
長椅子に腰かける男女の間には、拳二つ分の距離が開いている。
互いが互いに緊張し合っていることは一目瞭然であった。
裏返った声音で、今日は良い天気ですねとのたまう男には、窓の外が見えないのだろう。
そそそそうですね、と激しくどもる女にもまた、同じことが言えるのだろうけれども。
粗茶ですが、そう言ってそれぞれに各々の湯飲みを渡せば、面白いぐらいに泳いでいる二人の視線は二つの湯呑みを行き来して恥ずかしそうに伏せられるのだ。
独り身には辛い光景だなぁと他人事に焼き菓子をかじれば、ホロホロと崩れて優しい甘味が口一杯に広がった。
心地よい雨音が響くなか、女と男はポツリポツリと会話を交わす。
下らないことであったり、そうでなかったり。
抜け出してぇなと思う助手が今にも浮かびそうな腰を必死に押さえ付けてまでここに居座っている訳は、原因の二人にあるのだからどうしようもない。
隊士共々気を利かせて散々二人っきりにしてやろうと思っていた頃があったものだが、退席しようとする度に目の前の二人は気の毒なほどに狼狽しその場にいた人間を引き留めるのである。
曰く、気恥ずかしすぎて堪えきれない、と。
片や堅物で男っ気がなく仕事一筋で生きてきた女、片や生来の気質からか女にモテず拗らせた挙げ句ストーカーへと転身した男。
良い年の頃の男女が醸し出す雰囲気ではい、甘酸っぱくも蕁麻疹が出るような初々しさに、助手は乾いた笑いを浮かべた。
こんなんで結婚できるのだろうか。
焼き菓子を口に放り投げ、助手は気だるげに窓の外を眺める。
ちらりと視界に収めた手は、案外強く重なっているようだった。
雨は、未だ止まない。