ぬるい感情の中を泳いでいた。
纏い着く何かを掻き分けれど掻き分けれど欲した者には指先すら掠らず、声を張り上げた所で去り行く背は遠くなる。
胸中を占めるは虚ろな焦りと寂寞、それから幾らかの怒りであった。
大口を叩いておきながら何もかもを捨て、お前一人と誓いながら己ではない者の手を取り笑うのか。
はた…と目を覚ました小十郎は、隣で驚いたように眸を見開く男の姿を視界に捉えた。
俄に慌て始めた男の白い手が小十郎の頬へと宛がわれ、涙の筋を拭う。
怖い夢でも見たのか。
内緒話を持ち掛けるような男の囁きに何でもないと返し、小十郎は鼻を啜った。
己らしくもないと夜着の袖で乱暴に目元を擦れば、布地は思いの外に濡れている。
「よっぽど怖かったんだなぁ」
幼子をあやすような声音で、穏やかに笑う男の顔がそこにはあった。
思わず目が離せなくなり、言葉が喉の奥で張り付いたかのように出てこない。
男は優しげな手付きで肌触りの良い手拭いを小十郎の目元に押し当てる。
じわり、と。
真白い布に歪な染みが広がった。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな」
目蓋の奥から滲み出す涙に男の声が強張った。
何でもねぇと湿った呟きを溢し、小十郎は男の襟を緩く掴む。
唐突に引き寄せられた男は、つんのめる様に体制を崩しながらも手慣れた仕草で小十郎を胸に抱く。
図体の良い男同士であるため少しばかり固く窮屈な抱擁ではあるが、嫌いではない。
柳眉を八の字に垂らし情けなく此方を窺う男の手が、規則正しく小十郎の背を叩いた。
餓鬼じゃねえんだと囁いた小十郎に男は困ったような笑みを返す。
「そうは言われてもなぁ…」
「…もう、良い。止まった」
「何事かと思ったよ。跳ね起きるし、鼻水まで垂らして号泣してるし、」
政宗に棄てられる夢でも見たのか。
前髪を下ろした小十郎の頭を労るようによしよしと慰める男の、相も変わらずな子供扱いが癪に障る。
主君を引き合いに出す事も大概だが、己が元凶だとはこれっぽっちも考えていないだろう男への深い溜め息が口を吐いた。
てめぇの所為だ、とは口が裂けても言ってやりたくない。
片方の手がするりと掬われ、長く節くれ立った指が小十郎の指を絡め取る。
指の間の柔く滑らかな肌に背筋が粟立った。
「何したのかは知らないけどさ、謝りゃ許してくれるだろ」
「そうじゃねえと言ってるだろう」
繋がれた手に力がこもり、男のぬるい体温が小十郎へと移りゆく。
宵の闇にぼかされた群青の双眸が己を真っ直ぐに見据えている。
男の紅唇が緩く弧を描いた。
「何にせよ、こうしてりゃ安心だろ。怖い夢なんか俺が追っ払ってやるさ」
もしもの時は政宗にも一緒に謝れるし、と。
悪戯っぽく小首を傾げた男に、小十郎はくつくつと喉を鳴らした。
「てめぇは俺をなんだと思ってやがる」
「唯一無二の、いとおしく大切に思う相手…だな」
「いけしゃあしゃあと…」
「…安心しろ、俺も恥ずかしい」
空いた手で顔を覆う男の耳は、暗がりから見ても充分に判る程赤く染まっている。
己も似たようなものだろうと当たりを付け、小十郎は褥へと潜り込んだ。
繋いだ掌を揺らし無言で男を促せば、小さな忍び笑いが洩れ、男の身体が衣擦れの音と共に小十郎の隣へと収まる。
「おやすみ小十郎」
「ああ、おやすみ」
【怖い夢を見たら獏になってあげる、幸せな夢を見たら手をつなごう】
固く結ばれた掌に思考がゆらゆらと揺れる。
内から沸き上がる欠伸を噛み殺し、小十郎は寝入る男の側へ身を寄せた。