真っ暗だった。
空を覆う鉛色の厚い雲に遮られ月の光さえ届かない。
誰かに追われるように、誰かを追うように、冷たい石畳を走り続けたが、やがて息も絶え絶えになり、小石に蹴躓き派手に転んでしまった。
――ごめんね
どうして謝るんだ
――おかあさんをゆるしてね
最初から恨んでなどいない
――つれていけなくてごめんね
違う、連れてってくれなくて良い
――げんきでね
待ってくれ、最後に一言だけ、
熱を持ち痛む膝に指を当てればぬるりとした感触に唇を噛みしめた。
「お前さん、派手に転んだなぁ」
何処からともなく降って下りた声に身体を震わせる。
周りを見渡せど目に映るのは木、木、木。
ぼろぼろの格好で膝を抱える自分以外、森の中には誰も居ない。
「だれだ!!」
そう言えば昼間、この辺りで変質者が出たと学校で注意された。
男女問わず被害が上がっているから、夕方以降は絶対に家を出てはいけないと言われたのに忘れていたのだ。
人の気配を警戒し尻餅を着いたまま後ずさる。
「あー違う違う、こっちだこっち」
やけにのんびりとした大人の男の声を辿り、頭を反らす。
見慣れた赤い鳥居の天辺に、銀色の獣が気怠げに横たわっていた。
眼をまん丸と見開き凝視していると、獣は体重を感じさせない身のこなしでひらりと目の前に飛び降りる。
逃げなければ食べられてしまうかもしれないと言うのに、其処から動くことが出来なかった。
これは何の獣だろう。
銀色に光り輝いている。
耳は三角に尖っていて、先っぽが黒い。
顔は、細長い…のだろうか。
尻尾はふさふさとしていて、やはり先だけが黒い。
ぱっと見で狐のように思える獣だが、身体はまるで熊のように大きい。
「お前さんが二十八代目の神主か」
にぃ、と。
鋭い牙の見え隠れする口が歪んだ。
「小生か?小生はな、此処の使いっパシリだ」
ぐにゃり、と。
獣の姿が揺らいだ。
「早速で悪いんだが、供え物を頼む。腹が減ったのでな」
風に途切れた雲間から銀の光が射し込んだ。
獣の姿は瞬く間に無くなり、代わりに現れたのは月光を背負い仁王立ちする筋骨隆々の大男だった。
それから気を失った俺は目覚めたら自分の布団の中で、じゃああの出来事は夢かと思えば確かに母は知らない男と駆け落ちしていたし、膝にはしっかりと包帯が巻かれていたし、目の前では呑気な顔した見慣れないおっさんが美味そうに苺大福を頬張っている。
口をあんぐりと開いておっさんを見つめていると、おっさんは口の周りに粉を付けたまま幸せそうにふにゃりと笑う。
その頭には何処かで見たことがあるような三角の耳が生えているし、尻の方からではボリュームのある銀のふさふさした尾がゆらりと揺れている。
「お、起きたか。なぁ、もっとこの大福供えるように言ってくれ。小生の好みだ」
両目が前髪で隠れたおっさんは湯呑みに入っていたお茶を飲み干すと、手の甲で口を拭い、枕元へと腰を落とす。
この変質者はおもちゃの耳と尻尾まで付けて、人のおやつまで奪って、一体何の悪ふざけなのだろう。
何だか急に腹が立ったので、ふさふさしている尻尾を掴み力任せに引っ張った。
「いでででででで!!止めろ馬鹿、お前さ…痛ぇええ!!!」
「うわあああああ!!!!!身が詰まってるー!!!!!」
「当たり前だろうが!!小生の尾が禿げたらどうしてくれる!!」
「知らねぇよハゲろ!っつうかでてけよヘンシツシャ!耳としっぽ付けてヘンタイだろ!!警察よぶからなおっさん!!」
「おっさ…!!!小生はこの神社の神仕だぞ!?」
「稲荷神社の神様は狐だぞヘンシツシャ!!お前なんか熊だろうが!!」
「小生は狐だぁあああああああああ!!」
毛を逆立たせた変質者は耳のヘタった頭を抱え、一言何故じゃと吠え、それから肩を落としてぐずぐずと鼻を啜った。
我が家の"ば"官兵衛様。
(あれから十年、狐らしい狐が増えたり、隣町の神社から追い出された蝶々が居着いたり、近所の狸が顔を出したりと、家の神社は神仕飽和状態だ)