知らなければ良かったと口にしないのは、言った自分以上に知らせた友人が気に病むことを解っているからだ。

久しぶりに漕いだ相棒は所々錆びていて、ペダルを踏む度にきいきいと耳障りな金属音を鳴らす。
ぽつぽつと灯る街頭に照らされる、古ぼけた住宅街の質感は、否が応にも過ぎていった時間の流れを己に伝えた。
坂とも呼べない緩い勾配の下で、立ち並ぶ団地の影を見る。
クリーム色だった塗装が剥げ、所々ひびの入った四角い建物の、四階の、一番端の部屋。
締め切られた障子に映る光はない。
あそこにはもう、彼奴は居ないのだ。

記憶よりも大分楽に上れた坂のてっぺんで、ぼんやりと小さな窓を見る。
いつだったかは忘れてしまったが、何度か遊びに行った。
小さな部屋だった。
漫画を読んで、ゲームをして、寒い日には毛布を分け合い暖を取った。
団地の裏の、小さな公園で遊んだような気もするのだが、もしかしたら他の誰かと間違えて覚えているのかもしれない。

(箱が、開いてしまった。大事に大事に抱えていた、箱が、蓋を、開けてしまった。)

会いたかったなあ。
零れた言葉が地面に落ちる。
会いたかったなあ、会いたかったなあ。
最後に見たのは、何年前だったのか、もう覚えていないんだ。

なぁ、知っているか。
雑踏の中、ぽこんと湧き出る蛍火のような期待を。

もしかしたらと人混みを見回す己の眼は、もう二度とお前を映すことがないと知っているのに、探すことを止めそうにないんだ。
偶然、また会えるかもしれないなんて思うんだ。
もしかしたら、なんて、馬鹿みたいだろう。
アドレス、聞かれたのに、教えてやれなかったな。
今度は教えてやるよ、うざいぐらいの返信付きだ。

ペダルを漕ぎ、家路を辿る。
彼奴が結婚していたのか、子供が居たのか、どんな人生を送ったのか、知らないし、知りたくもない。
己の中での彼奴は、ちょっとダークな一匹狼で、年相応の悪ガキで、チーズと理科の実験と、流星群を眺めることが好きな、愛すべき変人である。
間違いなく、己の初恋であった。

薄青い月明かりで、新聞に載るしわくちゃな住所を頭に焼き付ける。
(この家に骨がある)
(仏壇があり、線香が煙をくゆらせ、遺影の中で彼奴が笑顔を浮かべている)
(これからはずっと、彼奴はこの家にいる)
(ずっと)
(ずっと)


つぶれた箱を丁重に弔い、そうして己は新たな箱を胸に抱いた。
決して蓋が開かぬよう封をして、白骨になった猫を、いつまでもいつまでも大事にしようと思う。
気付かなければ、幸せなのだから。


【こいねがう】
(後の事がどうなろうとも)(お前に好きだと言えば良かったよ)