主×小平太

滝夜叉






「くおらぁあ!!私の話を聞けー!!」
「聞きたくありませーん!!」
「待てぇえええ!!!」
「待ちませーん!!!」



きゃあきゃあと歓声を上げ逃げる水色の井桁模様を追い回していた滝夜叉丸の脚が、グラウンドの端に聳える大木の下でぴたりと止まった。

最上級生の証である緑青色の装束にくるまれた長身を器用に折り曲げ、地べたへ寝転がる男。
頭巾のない頭、艶のある黒髪は三年時に手入れが面倒だと切ってからずっと学園一短い。

木陰に吹く涼しげな風が黒髪を揺らした。
長いか短いかと問われれば長いまつげ、通った鼻筋は高くもなく低くもない。
薄い唇から漏れる寝息に高鳴る胸を押さえながら、滝夜叉丸は男へと歩を進めた。
手を伸ばせば触れられる、そんな位置。

どくどくと煩い鼓動が聞こえやしないかしらと、背を伸ばし足を揃え正座する姿は端から見れば滑稽に違いなかったが、今の滝夜叉にはどうでも良いことであった。

屈み込み、精悍な顔立ちをまじまじと見つめる。
額から伸び右目を通り顎の下まで至る傷痕と、耳から耳へと顔を横半分に割かれた傷痕が痛ましい。指先で十字をなぞるようにそっと触れる。
額、まぶた、頬、口元、顎。
耳、頬、鼻梁、頬、そして耳へ。
起きる気配のない上級生に首を捻りつつ、滝夜叉丸は我知らず淡い吐息をこぼしていた。




暗い林の中、下品な笑い声と薄ら寒い夜気の中、砂利や草木が晒された肌に細かな傷を付ける。
逆らいようのない力の差、身の焦げるような恥辱、四肢を抑えつける湿った掌の生ぬるい温度。
滝夜叉丸が最悪の事態を迎えずに済んだのは、奇跡としか言いようがなかった。

『何をしているんですか』

感情を押し殺したような静かな声で問いかけた三年生を嘲笑い、苦無を構えたのは六年生だった。
それからのことはあまり覚えていない。
気が付けば岩の影に隠れ、引き裂かれた装束を抱えて泣きじゃくっていた。
ぶつかり合う金属音、打撃音、誰かの悲鳴、悲鳴、悲鳴。

暫くして、もう大丈夫だよと手を差し伸べてくれたのは、血にまみれた真っ赤な顔で申し訳無さそうな笑みを浮かべる三年生だった。




遠くから、バレーをする生徒の声が聞こえた。
周囲を警戒し、滝夜叉丸は震える唇をそっと男の傷痕へ押し当てる。
少しひんやりとした肌のざらついた感触に頬を赤らめ、名残惜しげに離れた。
規則正しく上下する胸へ頭を凭れさせ、身体を寄せる。
僅かに汗の匂いがする装束を指先で軽く握った。


「…助けてもらったら、懐いてしまう物でしょう」


情が沸いた、愛おしいと思った。
身を挺し己を救った相手に心を奪われる事の、何が可笑しいのか。
これは刷り込みでもなければ勘違いでもない、正真正銘、混じり気のない恋だった。


「先輩…」


己の話に耳を傾けるだけでなく、行き過ぎれば窘め、努力をすれば手放しで褒めてくれる。
ごつごつとした大きな掌はさらりと乾いていて、それで頭を撫でられ、抱き上げられることが堪らなく好きだった。
綺麗な髪だと褒めてくれる、美人だなと言ってくれる、頑張り屋だと認めてくれる、無茶はするなと心配してくれる。
些細な切欠が雪のように降り積もり、溶けることのない恋情となって滝夜叉丸の腹中をぐるぐると巡っている。




【初恋は叶わぬ定めが常なれど】
(心のどこかで、わたしだけは特別なんだと)
(何かきっと特別な事が起きて幸せになれると)
(根拠もなくそう信じていた)

(だって)

(だってこの傷は)(わたしをまもってついたものなのだから)(だからきっととくべつなことがおきる)(だから)(だか、ら)