配られたばかりの新しい教科書に自らの名を記しつつ、真田弦一郎はふと昔の出来事を思い出した。


真田がまだ小学生だった頃の話である。
いとしい少女が己の嘆願により許嫁となったばかりの時、真田は舞い上がっていた。
これより先の人生を、心から求めた相手と歩むことができる幸せ。
手に入れたそれを逃さぬよう、幼い真田は少ない知恵を絞って考えた。
考えて、考えて、思い付いた。
至極簡単な話である。
少女が真田の許嫁であると、周りに示せばよいのだ。


真田は早速少女の元へと向かった。
その手に彼の有名なマッキーを持って。



「弦一郎、そう怖い顔をするな」


赤也が怯えている。
そう苦笑した柳へ、真田は小さく唸り声を返した。
部室の隅でかたかたと震える後輩にすまんと謝り、教科書を鞄へとしまう。


「…昔の失態を思い出していたのだ」
「もしかしてあの子関連なんじゃない?」
「む、幸村、何故判った」
「真田が馬鹿をやらかすの、あの子の事以外に無いじゃないか」


からからと笑う幸村に眉間の皺を深め、真田は腕を組む。
聞きの体勢に入った部活仲間へ居心地の悪そうな視線を流すが、無言のまま先を促され、真田は観念したように重い口を開いた。


「あれが許嫁になった当初、俺は浮かれていてな」
「真田は今も浮かれてるじゃないか」
「む」
「話の腰を折るな精市。弦一郎、続けてくれ」
「……俺の名前を、な。書いたのだ」


涼しげな風がカーテンを揺らし、新緑の匂いがリビングを満たす。
真田は口内に溜まった唾液を飲み下し、大きなソファの上で小さな体を丸めて眠る少女を起こさぬよう、そっと近寄った。
すやすやと寝息を立てる少女の頬へ、真田はマジックで己の名を確りと書き記していく。
力加減を探るように真を書き、少女に傷をつけぬよう慎重な手付きで田を書いた。
弦、一、郎、と続ければ、小さな胸に幸福感が染み渡る。
全ての文字を書き終えた真田は、神事を終えた神官のごとく厳かに頷き、少女へと囁きかける。


「…お前は、俺の妻になるのだぞ。誰にも渡さん、何処にもやらん。俺の、俺だけのものだ」


許嫁の頬を飾る黒々とした文字を満足げに眺め、真田は少女の唇へゆっくりと己のそれを重ねた。


「真田副部長キスしたことあるんスか!?」
「…許嫁に接吻して何が悪い」
「…ぶっは、もうだめ!!頬っぺたに油性マジックで自分の名前とか…!子供だ!あはははは!!!」
「っ、そ、それでっ…ふふ、どう、したんだ?」
「どうもこうもあるか。母に散々叱られただけだ」


目を覚ました少女と共に、帰宅した母を迎えた真田は、呆れたように溜め息を吐いた母親から盛大な拳骨を賜る事となる。
大事な相手を物として扱うとは何事か、と。


「そっちか!!ひっ…くふ、ふっ…も、だめっ!!」
「くっ…ま、マジックで落書きしたことは不問なのか弦一郎…!!」
「いや、それは彼女に叱られた」
「結局怒られてる……っ!!」


腹を抱え笑い転がる幸村に唇を引き結び、真田は目を閉じた。
喋るつもりの無い話の続きを思い返し、唇の端を緩める。
頬の名前が消えて行く様を心底惜しんだ真田に、少女は困ったような笑顔で腕を出したのだ。
うっすらと傷跡の残る、真っ白な細い腕を。


「おい真田、彼女が来てるぞ」
「そうか、すぐに行く」


マジックをポケットへ捩じ込み、真田は腰を上げる。
笑いすぎた為流れた生理的な涙を拭う幸村と、一心に文字を綴る柳、羨ましげな視線を向ける赤也を残し扉を開ければ、そこには一人の少女が真田を待っていた。



「今日もお疲れさま、弦一郎」
「ああ」


真田は少女の手を握り、指を絡めて固く繋いだ。
力を込めれば簡単に壊れてしまうだろう、小さな手である。
羞恥に顔を赤らめる少女を眺め、真田はその長袖に覆われた腕を夢想する。

家についたら、久方ぶりに証を残そう。

無言でマジックを手にする真田に、少女は困ったような笑顔で笑ってくれるだろう。
制服の長袖を捲り、白い腕を出して、しょうがないなぁ、と柳眉を下げて。



【彼しか知らない彼女の話】
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