ぱたぱたと傘を叩く雨粒に、男は眉を垂らし溜息を吐いた。
月の光一筋通さない曇天の下、ぬかるむ地を覆うのは無数の花びらである。
番傘を傾け空を、正確には道の端々で満開の花を雨に散らす桜を眺める男の頬に、幾つもの雫が伝った。
忙しさにかまけ、季節の移り変わりへ目を向けずに居た男が桜を目にするのは、今年初めてのことである。
きちんとした花見の手順とやらは知らないが、出来れば青く澄んだ空の下でお天道様の光を浴びながら、美味い酒でも嗜みたかった。
残念だ残念だと唇を噛む男に声を掛けたのは、赤い髪を纏め上げ派手な浴衣の裾を揺らす男である。
「雪代隊長じゃねーか。あ、いや…隊長じゃねーです、…か?」
「…俺に聞くのか」
慣れぬ敬語を辿々しく紡ぐ恋次の薄い唇に男は目を細めた。
手に持つ橙色の明かりが照らす眼前の青年は、些細なヘマに頬を染め照れたような仕草で男を盗み見る。
「こんな遅くまで仕事っスか」
「逃げてたツケが回ってな」
「真面目に仕事してくれってぼやいてました」
「…見当が付くから誰がとは聞かねえよ」
お前は仕事かと尋ねる男に、いえ飲み会ですと至極正直な答えが返された。
成る程、よく見れば恋次の頬の赤らみは照れによる物だけではないようだ。
ほんのりと酒のにおいがする吐息に、羨ましいなと男が呟く。
「今夜で全部散るだろうな」
葉桜になる前にゆっくりと花見をしたかった。
寂しげな色を含んだ男の声音に恋次が眉根を寄せた。
男の悲しむ顔は、好きではない。
「あの、隊長…今から暇ッスか」
時刻はとうに日付が変わり、人を誘うには少々遅い。
恋次は口内に湧き上がる唾液を飲み下し、酒の回り始めた頭でぐるぐると考えた。
相手は貴族で、加えて隊長であり、遙かに年上の、それなりに恩の有る男で、個人的に親しくもある。
故に悲哀の顔など見たくはないし、寂しく思って居るのなら、少しで良いから役に立ちたい。
「俺、こないだ席官に昇進したんス。だから…その、俺の部屋、桜見えるしよ…」
意を決して見上げた男の顔に浮かぶ微笑みを目にし、恋次の口からするりと言葉が落ちた。
「高い酒で祝ってくれよ、來海」
「…お前は変わらずお節介で生意気な奴だな。良いよ、とっておきので祝ってやる」
くつくつと喉を鳴らす男の表情は傾けられた傘の中に隠されてしまったが、じわりと優しく滲む群青の双眸を見たような気がして、恋次は口元を緩ませた。
都合の良いことに明日は休日である。
「隊長、明日早くないんスか」
「もういい、休む。後は簡単なもんばっかだし。お前は休みなんだろうな」
「もちろん」
「潰れんなよ」
黒々とした水面に浮かぶ花弁を一瞥し、男は赤い髪の揺れる背を静かに追った。
【野良桜】
(隊長、こっちッス)
(焦るなよ、まず酒取りに行かないと)
(そうっすね)
(…恋次)
(はい)
(あんがとな)
(……っす)