嗚呼、牡丹肉が喰いたかった。


動物性の蛋白質を求め來海が仕掛けた猪用の罠に入っていたのは、何とも小汚い身形の男だった。
逃した牡丹肉を口惜しみつつ、地面に掘った大穴を覗く。

血抜きを兼ねれば一石二鳥とばかりに穴の底へ敷き詰めた竹槍で、男はさぞや残念な肉塊になっているのだろうな、と。
涼しい顔で恐ろしい事を平然と考えてのけた來海の耳が、低く唸り泣く声を拾った。
鼻をずるずると啜り、時折ぶつぶつと誰かへの恨み言を挟みながら、それでも男は生きている様子であった。


「大丈夫かー」


よくもまぁ無事でいたものだ。
仕掛けた自分を棚に上げ男の幸運に感嘆していた來海は、何事もなかったかのように汚さの塊へと白い手を伸ばした。
突如現れた蜘蛛の糸に唖然とする男の顔は、土の色と区別が付かないぐらい汚れている。

不精髭の伸びた頬に涙の後が幾筋も流れ、口周りは鼻水でてらてらと光っていた。
言わんや服装も似たようなもので、何故か男の両腕は木製の枷に拘束され、元は立派な代物だったろう羽織は襤褸同然になり、下履きは不気味な黒ずみで元の色が解らない程である。
方々に散らばった髪は、櫛など入っていないのだろう、彼方此方で絡まり雀の巣を作っている。

串に刺さってなくても残念な男だったな。
失礼極まりない思考の來海が些細な異変に気付いたのは、差し出した手をおずおずと握った男を引き上げようと腕に力を入れたときである。
視界の端にちらりと映っていた鎖が軋み、重厚な金属音が広い穴に響く。
來海の手を掴みぶら下がる男の先に、さらに巨大な鉄球がぶら下がっていた。




來海は正体不明の男を川岸に座らせ、水に浸した手拭いを渡す。
男は眩しいものを見るかのように眼を細め、濡れた手拭いを受け取ろうとしたが、手枷が邪魔で上手く行かないようだ。
もたつく男の厚い掌から手拭いを掠め取り、來海は男の側へと腰を屈めた。


「じっとしてろよ」


まずは目の回りを撫でる、次に頬へと布を滑らせ、最後に口元を丁寧に拭う。
何度か繰り返すうちに男の顔は肌の色を蘇らせ、代わりに卸したての手拭いが黒く汚れた。
何処からか小太刀を取り出した來海は男の頬に水を塗り、刃で傷を付けぬよう慎重に不精髭を剃ってゆく。
暫くして現れた顔は、随分とすっきりした物だった。
絡まり合った頭へ柘植の櫛を当てると、幾分か上機嫌な來海は仕上げとばかりに己の組み紐をするりと引き抜き男の髪を縛り上げた。


「おー結構な益荒男じゃないか、あんた」

「おまえさんは大層な美男だな…、小生は狐にでも謀られたのか」

「獣と一緒にするなよ、それに化けんなら女だろ。…俺が男で残念だったか?」


くつくつと咽を鳴らし笑う來海は、男の頬を白く長い指で撫でる。
己の肌の黒さと來海の指の白さが視界に入る、どことなく卑猥なその光景が男の目尻に朱を射した。


「何であろうと地獄に仏だ。小生は黒田官兵衛、おまえさんは?」

「雪代來海。それにしても災難だったな黒田さん、誰が作ったのかあんなえげつない罠に引っかかるなんて」

「ああ、流石の小生も死ぬかと思ったからな」


己の仕掛けた罠をすっかり居もしない他人になすりつけ、來海は殊更爽やかに笑う。
來海の一挙一動に朱くなったり息を飲んだりする官兵衛は、その様子に気付くことなく目の前の器量に見惚れていた。



ファースト・コンタクト
(よし決めた、小生はおまえさんについて行く)
(なんで)
(拾ってもらった恩があるからな、小生がおまえさんを守るよ)
(あ、そ。ならまず服だな、その格好じゃちょっと…)