※謎時空、ムーンセルが観測したかもしれない、1つのIF。
※槍とザビ男
※支部より転載










よう、坊主。
人懐こい笑みを浮かべつつ此方に手を上げた青い髪の青年に、首を傾げた。
見覚えの無い相手である。
と言っても、『岸波白野』が覚えているものが幾つ有るのかと問われれば、困ってしまうのだが。


ピンクのエプロンを身に付けているその青年に当たり障りの無い挨拶を返し、改めてじっくりと見覚えの無い知人を見遣る。
澄んだ空より尚蒼い長髪を後ろで緩く結わえ、凜に見せてもらった宝物だと言う宝石のような深紅の瞳を悪戯っぽく輝かせながら笑っている彼は、どうやら眼前にある花屋の店員らしい。


「テメェも此所に居たとはなぁ、」


懐かしいぜ、と瞳を和らげる青年に苦笑を返した。
ごめんなさい、俺今記憶喪失なんです、と。


言葉にすれば物凄く深刻で大事のようだが、何故かそんなに大したことじゃないような気がするのだから不思議である。
第一、身体の奥底から『またかよ!』と絶叫するような衝動が込み上げてくるので、案外初めてじゃないのかもしれない。
アーチャーも言っていたではないか、岸波白野の記憶が飛んでしまうのは最早恒例行事で慣れている、と。
気長に待つさと寂しげな表情をしたアーチャーだったが、叩けば直るか?と、やたら凝った装飾のピコハンを虚空から取り出された時は丁重に辞退させてもらった。
俺の頭はファミコンか。


「成る程ねぇ、まぁた厄介なことになってやがるのか」


そうなんです、と一つ頷くと共に"また"なのかと頬をひきつらせる。
一体、岸波白野と言う人間はどんな人物だったのやら。


「いや、俺も其処まで詳しい訳じゃねえが…雰囲気も魂も特にお前と変わらねぇな」


だから一目で解ったんだしよォ。
ぽりぽりと頬を掻く青年に自己紹介をすると、名前を教えてもらった。
この何処にでもいそうな気の良い兄ちゃんがケルトの大英雄だとは…聖杯戦争とは凄いものなのだなぁ。
感心するやら呆れるやらで、はふん…と溜め息を吐いた俺の肩をがっしりと掴み、ランサー…
光の御子、クランの猛犬ことクー・フーリンは英霊にあるまじき悪どい顔で『時に、坊主』と距離を詰めてきた。


なんだろうか、ランサー。

「見たところ、お前今フリーだな?」

…フリー、とは。

「惚けんじゃねーぞ、令呪はあるがパスは繋がっちゃいねぇ。呼んでねえのか死んじまったかは知らねえが、サーヴァント無しはキツいだろ?仕方ねーな、此処で会ったのも何かの縁だ、俺がお前の槍になってやるよ!」


白く輝く犬歯をキラッと輝かせたランサーに謹んでお断りします、と断りを入れ、肩にかかった手を外そうと、
外そうと?


「まぁそう言うなや、時間はあるんだ、互いの利益をとっくり語り合うとしようぜ」


岸波白野は 逃げられない!
悪徳英霊に比べれば都会のキャッチセールスが可愛らしく見える。
強引な勧誘…果して此れは本当に勧誘なのだろうか、気分はドナドナされる子牛である。
助けて、凜。


「そういや今何処に住んでやがんだ?あの弓野郎と一緒なんだろ?」

ゆみやろう、とは、アーチャーの事だろうか?

「テメーのサーヴァントも忘れちまったか…」

…聖杯戦争の事は一応聞いたけれど、まだ思い出せないんだ。凜のアーチャーが俺のアーチャーだったらしいんどけど、その前に凜のアーチャーだったらしくて…あれ、なんだかややこしいな。

「節操無しが…相変わらず尻軽だなあの二股野郎は」

尻軽…二股…何だろう、記憶にかする物がある気がする。


ま、そのお陰で久々に真っ当なマスターが手に入ったんだがよ。
鼻唄を歌い上機嫌なランサーに引き摺られながら考えるのは赤い弓兵の事だ。
自分の名前以外、何一つ覚えていなかった岸波白野を保護してくれたのは、赤い外套を身に纏った褐色の青年だった。
か細く震える声で岸波白野をマスターと呼び、涙の幕が張る鋼鉄色の瞳で真っ直ぐに岸波白野を見詰め、全身から歓喜を迸らせながら岸波白野の体を抱き締め続けた、見知らぬ相手。
そんな表情をされて、誰、なんて、
聞ける訳がないじゃないか。


「んじゃ、チャッチャと繋ぐとしますかね」


休憩スペースのような中庭のベンチに腰掛け、手の甲に浮かぶ令呪を弄るランサーを眺める。
一体どうやってマスターの変更をするのかハラハラしていたが、限界ギリギリまで細くなった現マスターのパスにランサーと自分の魔力を注ぎ込んで裏技を使い上書きするらしい。
そんなことができるのかと驚く俺に、ランサーは『普通は無理だ』と事も無げに呟く。


「お前の魔力は月ん時のままみてーだしな。ちょろっと誤魔化しゃイケるイケる」

ら、ランサー、ちょっと待って欲しい。ランサーのマスターに挨拶とか許可とか必要なんじゃないだろうか?勝手に繋いでしまうのは不味いのでは、

「冗談じゃねぇ、これ以上あの野郎に振り回されてたまるか!魔力は録に寄越さねー癖にバイトだ手伝いだでコキ使いやがった上に宝具の開帳もなし、挙げ句自害だぜ!?サーヴァントを何だと思ってやがる!」

じがっ!?それは、また、なんと言うか、お疲れ様です。

「そう思うだろ!?凜の嬢ちゃんはホンット良かったぜ…幸運もDだったしよぉ…」


湿っぽくなった声音にほだされかけた心を引き締める。
このまま、ランサーと契約してしまってもいいのだろうか。
赤い外套を翻す男の背中が脳裏にちらつき、頭を振った。
この令呪に、他の縁を繋いでしまってはいけない、そんな気がする。
覚えていない筈なのに、


…ランサー、やっぱり俺は、

「マスターから手を離せランサー」


ランサーの後頭部に、ごりっ…と押し付けられたのは、捻れ狂う腰に定評のあるアーチャーの
偽・螺旋剣である。


「チッ、お出ましか」

「マスター、私の後ろへ」

「おおっと、そうはいかねぇ。せっかく捕まえた獲物を簡単に逃がしてたまるかよ」


くるりと体勢が反転され、偽・螺旋剣の先端が目前に迫る。
ぎょっとするアーチャーとは対照的に、ランサーは物凄く楽しげな声で笑った。
完全に悪役である。
麗らかな午後の素敵な中庭が、日曜朝に放送されるヒーロータイムに早変わりだ。
誰がどんな役とは敢えて言わないが。


「…堕ちたものだなクー・フーリン、」

「ぬかせ、マス充かましといて坊主をキープしてるテメェに言われたかねぇ。正義の味方が聞いて呆れるぜ」

「なっ!?凜はマスターであって疚しい関係等ではないからな白野!オレが一番大切に思っているのはおまえだ!」


弛く拘束されたランサーの腕の中で、何故か必死な面持で弁解するアーチャーを生温く見守る。
気持ちは嬉しいんだが、サーヴァントなのにマスターである凜を一番に考えなくて良いのかアーチャー。
気持ちは嬉しいよ、うん。
出来れば異性に言われてみたい台詞だけどね。


皮肉が飛び交う口喧嘩に挟まれながら、やれやれと眉を寄せた。
足元でビニール袋がかさりと音を立てる。
凜に頼まれていたアイスは、すっかり溶けてしまった。
怒られるかな、怒られるだろうな。
良くてアーチャーと一緒に正座、悪くてアーチャー共々女性陣の荷物持ちにさせられてしまうだろう。
何故アーチャーが一緒なのか、だって?
無論とばっちりである。
流石あかいあくま。
だがそこも魅力的だと思うのだけれど。


いつの間にやら話し合い(物理)をし始めた二人置き去りに、俺はコンビニを探しながら慣れ始めた遠阪邸への道をゆったりと歩き出した。




【ぼくら月から落っこちた】
(1:呼吸のしかたを覚えましょう)