※銀女医
先生、あんた大丈夫かい。
苦渋の色を滲ませたお登勢に尋ねられ、御影は困ったような笑みを浮かべた。
疲れた顔してるねぇと言われ目元に指を添える。
元々その気はあったが、このところはいっそう不眠に拍車がかかってしまったのだから、どうしようもない。
忙しくて、と逃げに走れば、お登勢はそうかいと言ったきり、それ以上何も問い詰めるようなことはしなかった。
手渡されたグラスを傾け、度数の弱い冷たい酒を胃袋へと流し込む。
空きっ腹にアルコールが染みた。
攘夷志士の端くれであり、戦争などに参加していた脛に傷を持つ身ながら小さな診療所を持てたことはこの上ない幸運であった、と。
二杯目のグラスをちびらちびらと舐めながら、御影は米神を解した。
このスナックの隣にある病院を閉めることとなった老先生の跡を引き継ぎ、新参ながらも腕が良いと認めてもらい患者が増えたは良いが、手伝いの居ない中今のまま続けていれば遅かれ早かれ体が潰れてしまうだろう。
そろそろ誰か雇おうか、そうため息を吐いた御影の眼前に、小鉢がそっと置かれる。
サービスだよ、と。
タバコをふかしながらそっけなく呟いたお登勢に、いつもすみませんと答え、御影は箸を持った。
店仕舞いだから早く帰りなと幾分か柔らかい声音で追い出され、それじゃあまたと手を振った御影は数歩先にどっしりと構える己が城をぼんやりと見上げた。
誰も居ない/帰ってこない場所へ帰らなければならない、誰の気配もない其処で自らの心音だけを頼りに眠りにつかなくてはならない。
とても、億劫だった。
明日お登勢は亡くなった夫の墓参りに行くために、店を休むらしい。
いつの間にか癖になってしまった薄笑いを引き締め、アルバイトでも探そうか、と。
頬を撫でる冷えた風に首を竦めながら、御影は重苦しい曇天の空を見上げた。
案の定、己の半分を借りパクされてから、幾度目かの冬の話である。
【ぐんないベイベ】
普段より人の多い店内へ視線を巡らせ、御影は榛色の目を丸くした。
煩くて悪いねとお通しを置くお登勢に、御構い無くと笑みを向ける。
手渡されたボトルから琥珀色の液体をグラスへ注ぎ、乾いた喉へ流し込めば獣のような唸りが漏れた。
呑兵衛だねぇ御影先生!出来上がっている顔見知りへ程々にしてくださいねと声を掛け、さてもう一杯、と。
持ち上げかけたボトルは、気だるげな声と共に開かれた戸の向こうに立つ男を見た刹那、床に落ちて割れてしまった。
「んだよ、満席かよ」
「一つ空いてるよ、座りな」
お登勢に促され銀色の髪の毛をぐしゃりとかき回した男は、死んだ魚の如き紅い目でカウンターの人影を捉えた瞬間、弾かれたように御影のもとへ駆け寄った。
騒然とする周囲を黙殺し、鼻先が擦れそうなほどに顔を近づけ、御影の顎を鷲掴むと何の前触れもなく唇を重ねる。
慌てたのは御影である。
周りの目もあると掴まれた手を振りほどこうにも、男の力に敵うわけもなく、固定された顔を背けることもできず与えられる口付けを享受するしかない。
息苦しさに御影の瞳が潤み、男の目に熱が宿る。
流されそうになった二人を止めたのは、お登勢が振り上げたスリッパの一撃であった。
ちびらちびらお猪口を舐めながら、肩を付き合わせる。
先程まで五月蝿かった周りの客の視線も、時間が経つにつれ興味を失ったのか段々と離れていった。
何かを話さなければいけない、けれども、言わなければならないその『何か』がとんと思い浮かばない。
御影は込み上げる溜め息を飲み下し、男の横顔を盗み見た。
微かに残っていた幼さは完全に抜け去り、そこにあるのは大人としての男の顔である。
困惑の色濃い男の紅い目が、御影を見た。
男の目に映る己の姿もまた、別れたときとは変わっている。
成る程、どうして良いかわからなかったのは自分だけではないようだ、と。
御影は手にした徳利を、男の空いた器へと静かに傾けた。
「生きてたのか」
「勝手に殺すんじゃねぇよ」
「首、斬られたって聞いた」
「繋がってんだろ」
空のお猪口に、男の手酌が注がれた。
中身のない徳利を追いやった男の手は、御影の頬を包むと確かめるように掌で弄ぶ。
むにむにと引っ張り、押し潰し、不細工だと笑う男に、御影は困ったような顔で笑った。
不意に男の動きが止み、視線が交錯する 。
己でも理解しがたい衝動に突き動かされ 、考えるうちに堪らなくなって、どちらともなくほうと息を吐き出した 。
おかえり
ただいま
嗚咽を圧し殺す女の頭に片手を乗せ、
笑えよ、と。
【Good night baby!】
よく眠れそうだ。
漠然とそう思った。