ロマン派

先日、職場の一歳年上の女先輩からこんなことを言われました。

「あなたは一番幸せだねえ、世の中を知らないんだから。世の中を知ってしまうとねえ、幸せにはなれないんだよ」

それを聞いたときは思わず笑ってしまいました。クソも面白くない戯言を言いやがる、本当につまらない人間だなあと思った。まずロマンが無い。

そのとき、なぜか映画「私の奴隷になりなさい」の、板尾が壇蜜に「お前は本当につまらない女だな」と言っている場面が浮かんできまして、まさにこういう女のことを言うのだと思いました。

貴様は私の何を知っていてそんなことを言うのかと。では貴様は人に偉そうなことが言えるほど世の中を知り尽くしているとでも言うのかと。

ひとつしか年が違わないのに、同じ独身なのに、なんだかんだ言って実家で暮らして弁当の果てまで親に作ってもらっている貴様には言われたくないなあと思いましたし、やはりロマンが無いのです。ロマンが無ければ面白くありません。

まあ、べつに普段から特別に親しい人でもありませんし、だから彼女には自分のこととか全くと言っていいくらい話していないはずなのに、まさかこんなことを言われるとは思ってもいませんでした。

私は職場では基本笑っていますから、彼女の目には、私は何も悩みが無い幸せな人として映っているのだと思います。まあ仕方がないのかなあ。だけど、「私は苦しいんです」みたいな、これ見よがしな面持ちで毎日職場に来ている人間もどうかと思いますね。

いつも日常の愚痴とか、体調が悪いとか、また何かにつけて否定するとか、そういう話しかしない人なので、話していても面白くないのです。それでいて何を感じたかとか、今後の目標とか、そういうロマンを交えながらの話であるなら面白いのですが、そうではないから。

彼女のような人間は、まずは何でも良いから映画の一本でも見やがれと。というのも、本人いわくツタヤで映画をレンタルしたことも無いのだとか。これは偶然なのかどうかは知りませんけれど、これまで話していて「この人つまらないわぁ」と感じた人たちの多くが、実は映画をバカにして全く見ていなかったのです。

映画が全てとは言いませんが、見ている人とそうでない人の性格には違いがあるのは間違いありません。自分がこの目で見たものしか信じないという信念があるのかは知りませんけれど、それではただただ見識が狭くなるばかりです。だから話すこともボキャブラリーが無くてつまらないのです。

彼女のような人間は自分が全て正しく、自分の中の固定観念が邪魔をしますから人からの言葉には真っ向から否定的で素直には聞き入れないでしょう。人からの言葉を端から聞き入れる気が無いのなら普段のこれ見よがしな態度もやめるべきだ。「大丈夫?」と聞いて欲しい、みたいな態度ですね。

だけど、今回は悔しいとか腹が立つとか、そういう感情も大してありません。確かに私はまだまだ世の中を知りませんしね。まだまだ途中ですし、自分でも自覚をしているから否定はしません。ただ、彼女はこれまでの時間、人として一体なにを学んで来たのだろうと疑問に思いました。

「美しいものは、醜いものに嫉妬しない」

板尾が言ったセリフです。私はこのセリフがとても好きです。

ナンバープレート

この一週間のうちで、立て続けに2つの不運な出来事に見舞われることとなりました。どちらとも職場での出来事で、ひとつは機械に右手を挟めてしまい中指の付け根部分に打撲を患ってしまったこと。もうひとつは車同士の衝突事故であります。

前者は自分単独の不注意に因るものでした。少し位置とタイミングが違っていたら打撲だけでは済まなかったであろう危機一髪のところであった。数日経ちますが未だにギンギンと痛みます。日を増すごとに痛みも増しているようにさえ思える。

後者は終業時の駐車場での出来事で、停車しているところに相手がよそ見をしていて突っ込んできたものでした。私が出ようとしたときに相手が入って来ようとしたんですね。駐車場は出入り口が一カ所しか無く、ロータリー式でもなければ、わりと狭いんです。

私はとりあえず一旦停車をして相手の様子を見ていたのですが、相手はよそ見をしているから私の車に気がつかない。来るぞ来るぞと見守っていたら、案の定そのまま突っ込んできました。

よそ見をしていて突っ込んでしまうのは、何を隠そうドライバーになりたての初心者時代に自分もやらかしてしまった事がありましたので、自分のことを棚に上げて偉そうに人を責めたりはしません。ただ、この帰宅ラッシュの時刻と、この駐車場の構造を見てくれよと思いました。

第一駐車場と第二駐車場がありまして、事故現場が第一で、相手は普段は第二を利用している人でありました。帰りに何か渡し物の約束があったとかで第一駐車場に来たらしいんですけれど、そんな用事は駐車場の外でやるのが普通ではないのかと。

まあ、こういう経緯の事故でして、今回は相手が100悪いから修理代は相手が全額を負担することで話は一件落着。

となるはずでしたが、話はここでは終わらない。この事故の相手というのが、私が長いあいだ世話になっている車屋に悪縁を持った人であったのです。車屋の兄ちゃんの話によれば、支払いを踏み倒した挙句に逃げ回っている人なんですって。

なんだか私にも覚えがあるなあ、そういう人…

車屋の兄ちゃんは、一時は職場に乗り込んででも支払いを要求しようとしたそうなのですが、慈悲深い店長がそれで自殺なんかされたら店の信用問題にも関わるというので追い込みを止めて話は保留になったんだとか。結局は逃げたもん勝ちってやつですね。

とりあえず事故の、というより職場の同僚とも言えるその相手には「車屋の兄ちゃんが呼んでいるから仕事の帰りに一緒に車屋に行こう」と伝えましたが、相手はかなり歪んだ顔をしていましたし、結局は来ませんでした。車屋の兄ちゃんも「人ってね、所詮そういうもんだよ」と言って笑ってましたけれど。

車屋の兄ちゃんには、毎度の愛車のメンテナンスの他にも、過去に未払い君の一件でも大変お世話になりました。

未払い君というのは私のイトコ兄のことでして、過去に安易に名義を貸してローンを組んでしまい、最後は20万ばかりを踏み倒されて逃げられたんです。車屋の兄ちゃんには、そのイトコ兄を見つけ出して車を取り上げてもらったりなどしてお世話になりました。

だから今回の一件でうまく事が運んだら、あの時の借りを返すことが出来るのになあと密かに思っているのですが、なにせ相手は逃げ隠れ、店長も既に諦めているのですから、悔しいですが多分どうにもならないでしょう。

ただ、ひとつ言えること。天は人の行いをしっかりと見ているのだと思います。だから今回のような偶然に偶然が重なったような奇妙な出来事が起こるのです。人のふり見て我がふり直せではありませんが、彼らを教訓として自分は正直に生きようと思いました。

まあでも、逆に自分の行動と言葉に完璧に責任を持って生きている大人というのも、そう滅多にいるものではありません。あ、今のところ一人だけそんな人間を見たことがあります、義理の父だろうか。人生最大の師匠だと思っています。義理の父については、また日を改めて書きたいと思う。

それにしても、今回の事故といい、また右手の怪我といい、どちらとも大事には至らずに済みました。車だって、うまい具合にナンバープレート部分に当たってくれたから一見すればナンバープレートが凹んだだけにしか見えないのです。改めて見れば周辺に傷と更なる凹みを確認できますが。

先に書いていた、ドライバーになりたての初心者時代に自ら起こした追突事故だって、相手の車に少し傷がついた程度で大きな凹みも無く、それこそ自分の車もナンバープレートが凹んだだけで済みました。修理費用も総額2万円程度であったかな。

他にも低すぎて見えにくい実家の塀に追突してしまったことが3回くらいあったのですが、すべてナンバープレートが凹んだだけで済みました。ここまでくればナンバープレートが可哀想になってきますよね。そして今回の事故ときた、もし自分がナンバープレートなら「またか、もういい加減にしてくれないか」と思うだろう。

単純に、何か目に見えないものに守られているのだと改めて実感しています。不運な出来事が起きたから悲しいのではなくて、起きたけれども大事には至らなかったことに感謝をしています。

私は、普段は事あるごとに酷くネガティブなのですが、いざ何か起きたときに自分でも信じられないくらいにポジティブに転換するのです。矛盾していますね。自分でも不思議で笑えるのです。



現在、ここ最近の自分には珍しく時代劇ではないドラマを見ております。「きょうは会社休みます」です。

最近まで「ボルジア家」「クイーンズ長安・後宮の乱」「花たちの戦い・宮廷残酷史」を立て続けに見ておりました。すべて血みどろの権力闘争ものでしたから、ちょっと気持ちが疲れてしまいまして。

特に「ボルジア家」は生々しい殺戮の場面があまりに多く、とにかく血生臭すぎて一時は途中で見るのを断念しそうにもなりましたけれど、しかしルクレツィアが美しく、また登場する女性陣のエロさも半端ではありませんでしたので、ちょっと男目線で見るのを止められませんでした。

ああ、いいね、いいよと見ていたら、あっという間にファイナルシーズンまで。美しい女というのは同じ女から見ても美しいんですね。ましてや男から見たらもう、この世の果てみたいな感じにでもなるのだろうか。

続・悩みが無いことが悩み

と、一度でいいから言ってみたいものですが、悩みが無い人生というのも、それはそれで退屈だと思うのです。

というより案外、悩むこと自体が好きなのかも知れない自分。これはどこか新しい発想で、いま何かに悩んでいる自分が凄く嬉しい。この気持ちは何なのだろう。やはり冗談ではなくマゾヒスト傾向にあるのだろうか。

帰り道、信号待ちをしていたところで不意に横を向いたらば、商店の窓ガラスに「世界一周船の旅」と大きく書かれたポスターが貼ってありました。それをボーっと見ていたら何だか途方もなく空しくなってしまったのです。

その後でスーパーに行ったんですけれど、とにかく野菜が高値で、少しでも安いものを探して歩いている自分が、まあ何とも情けなく思えました。「わたし何やってるんだろう?」と。

かれこれ、ここ2年近く旅行という旅行に行っておりません。いや自分の場合、これまでも楽しみに行くようなものではなかったから、そもそも「旅行」と呼べるのかどうかも分からないのですが。

自分の中で色々と思うことがありまして、あと一年と数カ月は一人旅は自粛します。3年好き放題をしたから、3年我慢をしているのです。



さて、私は今年に入ってから何故か無性に瀬戸内海に行きたくて仕方がないのでありますが、不思議に思って追及をしていたところ、いささか気になったことがありました。

ここで回りくどいことを長々と説明をしたところでアレだから、長い付き合いの読者様に端的に話の続きを伝えることとして、愛媛歩兵第22連隊という部隊が、山形歩兵第32連隊と深い関わりを持っているのです。同じく満州から沖縄へ、最後は同じ真栄里で倒れた部隊であります。

資料では、この愛媛歩兵第22連隊が中央に、左に山形歩兵第32連隊、右に北海道歩兵第89連隊の位置づけで作戦に参加していたと書かれています。部隊については調べれば調べるだけ複雑で迷宮入りしていくのですが、この3つの部隊から第24師団が構成されていたとのこと。

遺骨収集活動に参加をしたときに、糸州の壕(現地の言葉でウッカーガマ)に入ったのですが、この24師団が野戦病院として使用していた壕であったことを後から知りまして、大変に驚いた次第です。はじめから行く運命にあったのだと強く感じました。

愛媛県がどこにあるのか日本地図を見てみたら、四国で、ちょうど瀬戸内海に接している県でありました。ようやく答えが見つかったような気がしています。今回も単なる気まぐれではなかったようです。魂の旅は、まだしばらく続くことと思います。



先日、映画「日本のいちばん長い日」を観てきました。最後まで緊張が解かれず、人と人の信念がぶつかり合う様が濃厚に描かれた傑作であるという印象を強く受けました。本木さん、役所さんは私の中では文句なしのハマり役でありましたが、そんな中でも今回、特に松坂さんの迫真の演技力にことのほか圧倒されたのです。

家を出る間際までは「テッド2」と「進撃の巨人」との間でも心が揺れていたのですが、よくよく想像をしまして、一人で進撃の巨人を観るのも何だか面白くなさそうな気がしたから断念。

テッド2も吹替で観る気にはなれなくて、かと言って映画館で字幕となれば、つい字幕よりも風景のほうに目が行ってしまう自分ですから、海外ものは自由に巻き戻しが出来る自宅観賞でなければ駄目であると悟って断念しました。



もし、もっと早くに戦争が終結していたら原爆を投下されることもなかったし、都心地方の空襲も、疎開船の沈没もなかったと思うのです。もしかしたら沖縄だって戦火に巻き込まれるようなこともなかったかも分からない。もっと早くに戦争が終結していたら、あのときに絶命している多くの人間が未だ元気に生きていました。

もし、あのとき日本側が受諾を拒否して戦争を続行させ、本土決戦にまで突き進んでいたとしたら、この国はどうなっていたのだろう。また仮に戦争に勝利していたら、やはりアメリカのように未だどこかと戦争をしていたのだろうか。

中国が戦争勝利を祝うパレードを大々的に開催して世界を轟かせました。ニュースを見ていて凄く惨めな気持ちになりましたし、やればどんだのよ?(だから、どうした?)と映像を見ていて思いました。

しかし、日本も中国に対して散々と凄惨な行為をしてきたのもまた事実ですから、犠牲者と、その遺族の無念を思えば、それもまたやりきれない気持ちになります。

次回は「野火」を観に行こうと思っているのですが、なんだか、どこか観たくないと思っている自分もいるのです。 凄く惨めですからね。可哀想で。
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2015年09月 >>
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
カテゴリー
プロフィール
ギルドさんのプロフィール
性 別 女性
年 齢 36
地 域 青森県
系 統 普通系