2日目のことでした。活動を終えた後にメンバーの方々にお願いをして真栄里に連れて行っていただいたのです。他のメンバーは昨年の活動で既に真栄里を訪れていたのですが、それでも私の勝手を快く受け入れてくださいまして、それはもう有り難いの一言でした。

真栄里は国吉、喜屋武と同じく、糸満市内に位置しています。のどかな田舎道を入っていった茂みの中に、山形や白梅をはじめとした幾つかの慰霊碑塔がひっそりと立っているのです。最大の目的であった山形の塔に線香を手向け、手を合わせました。お疲れ様でしたと、安らかにお眠りくださいと。

懐かしいとか、何かを強く感じたとか、特別そういったものは無かったのですが、塔にいたときは全く気にならなかった傍のサトウキビの揺れる音が、帰ろうと背を向けた直後から異常に耳につき始めたんですね。

気になって何度も振り返り見ていたら悲しくなってきたから、最後は振り返るのを止めましたけれど。時は夕方で日も傾き始めていた頃でしたから、それもまた寂しさを一層させました。

山形歩兵第32連隊にこだわったもので、メンバーの方々が不思議そうな顔をしながら理由を尋ねてこられたのですが、さすがに理由は答えることが出来ずに、ただ頭を下げるばかりでした。

活動の後で聞いた当時の詳しい戦況の話によりますと、この真栄里は主に愛媛歩兵第22連隊が陣を敷いて戦っていたそうなのです。山形歩兵第32連隊は真栄里から少し離れた国吉で戦っていたとのこと。

32連隊が最後に軍旗を奉焼した場所が真栄里であり、事実上は真栄里がこの部隊の終焉の地となったそうです。

今回の活動で1日目に行きました国吉の丘陵が、まさに32連隊が戦闘を繰り広げていた場所であったということになります。

当時を知っている地元オバアの証言によりますと、32連隊の兵員は穏やかで地元住民とも仲良くやっていたそうなんです。当時、沖縄の住民にとっては日本軍もアメリカ軍と同じくらい、人によってはアメリカ軍の方が良心的だったとさえ語るほど、日本軍は質が悪かったそうなんですね。

そういうこともあってか、この国吉では一般住民の死亡者は圧倒的に少ないとのことでした。