また、風の知らせなるものを感じています。もう何年も以前からで、時折ふと「ちはや」という言葉が頭に浮かんできては、忘れた頃にまた浮かんできての繰り返しでありました。私は、「はて何のことだろう?」と疑問に思っていた。

このように、なにかキーワードを介して風の知らせなるものを受けることは、これまでにも度々ありました。そしてそれは気になったところで、後に、ほぼほぼ自らに関わってくるのです。つまりは事前の告知とでも言えばよいか。

ですから今回の「ちはや」も、仮にそれが自身に何かしらの由縁を持つものであるとしたならば、いずれはその答えを知るときが必ず来るだろうと思っておりました。

現在、山形歩兵第三十二連隊に関する資料を参考にして、この部隊を軸に沖縄戦について学んでいるのですけれど、その資料のなかで何とも興味深い一節を見つけました。

この部隊が転進の都度で使用していた幾つかの陣地壕のうちに大城森(うふぐすくむい)という壕があるのですが、当時、部隊のあいだでこれを別名で千早(ちはや)城と呼んでいたらしいのです。私はこれを「答え」と受け取りました。何より、それを知るにも今が丁度よい時期である。

当時、ここには連隊の本部が置かれていたとのことですが、過去、似たような経緯からどこか縁を感じている恩納村にも、同じく本部が置かれていました。いま思えばですが、いずれも本部があった場所に呼ばれていたのではあるまいか、という気がしてなりません。

この大城森陣地壕跡には、未だ300とも400とも言われる遺骨が眠っているとのことです。