劉、君の友人について私の知る全てを話す。こう言われた。
「正確に言うなら、君の友人が関わっていた集団について私が聞き出せたことの全て、ということになる」
 かくして再会は成った。
 今、二つの豚骨ラーメンと一つのチャーハンを挟んで、俺を呼び出した男と対峙している。
「お前、いつ書く?」
 訊けば、箸を割ろうとしていた徳尾は手を止めた。
「書き留めてはいないが、頭の中で書いている」
「ふうん」
 ぱき。二つの割り箸が同時に音を立てる。厚いチャーシューを掴むとやわらかかった。具をスープの中に引きずり降ろして、一旦ひたしてから持ち上げる、と同時に、対面の男が一口目の太麺を盛大に啜った。俺のこと見る気ないだろこいつ。知らず知らずのうちに俺は小さく溜息を吐いている。それを徳尾は聞き咎め、曇った眼鏡の顔を上げ、言った。
「食べないとのびるよ」
「はいはい……」
 ラーメンはうまかった。うまいものを一緒に食いたいやつの顔が脳裏によぎった。もういない男の顔だ。
 後払いだと言われた情報で、何を得られるかは分からない。が、何かを得られるかもしれないという淡くも拭い去りがたい期待が、亡くした親友を事ある毎に浮かび上がらせた。

 徳尾から連絡が来たとき、それはもう当然『再戦の申し込みなら煉獄を通せ。通らないから』と突っぱねるつもりだった。それが、電話口で奴はいきなり「君と食べたいラーメンがある」と宣った。なぜそれで俺が承諾すると思った? 何のつもりだと訝りながら返答するための日本語を探していると、黙っている俺をどう思ったのか徳尾は「再戦は再戦で申し込む」と見当外れの言葉を重ねてきた。
「私高いヨ? ラーメン奢り、まだ足りない。何払う?」
 そこで提示された条件を聞き、俺はまた言葉を失う。その情報をどこから聞き出すつもりなのかと訊ねると、とりあえず拳願会伝いに手当たり次第だろうな、などと無計画な回答が投げ寄越された。
 どう考えても、食事を摂る以外に目的があるに決まっている。なぜなら一度の食事時間なんてたかが知れているのだ、俺の時給に換算しても流石に支払いすぎだと感じる。
「お前、本当の目的話すよろし」
 問い詰めると、拙い日本語を受け取った徳尾はとぼけた口調で言った。
「次回作の取材だ」

 俺がラーメンを一杯食べ終わるまでに、徳尾はラーメンとチャーハンに加えて替え玉まで完食した。お前は食い過ぎだとか、味だとか食感だとかそれを好むとか好まないとか、最近の戦績だとか傷の具合だとか、そういう切れ切れの会話が普段からあったもののように流れた。そのやりとりは明滅しながらも軌跡を残して飛ぶ蛍のように、点々としながら滔々としていた。
 流れが一段落したとき、ようやくというべきか、ぽつりと男は話を切り出す。
「これが約束していたものだ」
 徳尾は鞄から二つ折りの紙を取り出し、俺に突き出した。大して多くはない何枚かが綴じられたそれは、店内のありふれた暖色の光を遮って、丼の底に浅く残ったスープに影を作る。
「それ払う“取材”できたか?」
「充分に」
「……本当?」
「もちろん。店内での雷雨の聞こえ方、厨房の横を通ったときの唇のべたつき、トッピングからラーメンを食べる人間の箸のルーチン、対面で麺を啜られるときの香りの立ち昇り方――」
「わかった。お前良いなら私言うことない」
 紙束を受け取った。
 それら徳尾の頭に浮かんでいる表現の数々を聞いても俺には関係のないことだった。こいつの執筆活動に何が有用で何が無用かなんて、興味もない。理解できる気もしていない。
 あの日、俺が徳尾の手を取った後、こいつは立ち上がって自分の脚でスタスタ歩いて試合会場を出た。それだけならまだしも、医務室に行くついでに一度控え室に戻り、持参した紙とペンを持ってから傷の手当てを受けにきた。先に骨折の処置をされていた俺は、徳尾が手当てされるあいだペンを動かす手を止めない一部始終を見ている。心底、なんだこいつ、と思った。俺の人生で出会ってこなかったタイプの人間であるということしか分からない。
 受け取った紙を開いて無地の一枚目を捲ると、マス目入りの用紙に手書きの文字が並んでいた。日本語じゃねえか、と口をついて出た母語の、その非難のニュアンスを徳尾も感じとったらしく、「読めそうか」と今更聞いてくる。紙束を元のように畳み、しまい込みながら答えた。
「さあネ。お代は頂戴したヨ」
「検めないのか」
「私言たはず、お前の条件でいい。情報突き合わせるのは後」
「寛容さに感謝する」
 徳尾は空いた手でグラスの冷水を飲み干した。
「――隠さず言えば、君に話した目的なんてあってないようなものだ。作家は体験を軽んじるべきではないが、体験だけに囚われていては想像が羽撃けない。取材は大切だが、私は私の書く主人公を君の動きを真似る人形にするつもりはない」
 俺は黙って頷く。伝えられた大意を理解していることを示し、話の先を促した。徳尾はグラスをテーブルに戻す。
「そうだ、最初の一言の方が本心だった。故にその他はみな後付けだ。しかし、後付けで何ら問題はなかった。そうだろう? 君が君の値段は高いと言ったときの、その声音を先に私は聞いていたから」
 徳尾の眼鏡の曇りはとうに消えている。レンズ越しに真っ直ぐ俺を見ていた。俺は肩をすくめるしかない。自覚があったからだ。突拍子もない申し出をされたとき、俺には「なぜそれで俺が承諾すると思った?」の疑問はあったが、「俺がそれに付き合う理由がどこにある?」とは終ぞ思わなかったという自覚が。つまり、少なからずその提案に好印象があり、それが我知らず声音に出ていたということなのだろう。
 俺はテーブルに据えられたピッチャーを持ち上げ、透明なグラスに冷水を注ぐ。
「勧君金屈巵、満酌不須辞――」
 二人とも黙って水を飲み、それについてはもう何も言わなかった。
「――私、私の声聞かないヨ。何も知らないネ」
「そうかね」
 目の前の男が笑ったとき、どこかに雷が落ちた音がした。
「そう。でも、また誘うよろし」
 それは、或いはゆらめく湯気のゆらめき、または時を同じくして聞く雷鳴、はたまた食器の液面にちらつく影、そういうものの一切を掴みとろうとしているかのような無謀。俺は、俺が表したらしい好情の、その具体的なところを未だ把握できずにいる。
(了)