東と当真と冬島の三人交際時空で、どこからが浮気かを当真と東が話す回。
・冬島不在
・当真が報われない雰囲気
・東に不特定多数の相手がいた
・具体的な性描写なし
・東はウケ専。当真と冬島のポジションについては記述なし
・前編までの途中下車可。
 後編(:マーク以下)で破局します


 そのときのメニューはハンバーグで、隊長のお母さんが作ってくれたやつ。これみたいな一人一つで量を選ぶハンバーグじゃなくて、掌くらいに小さいのをいくつも焼いて、家族がそれぞれの空腹具合に合わせて大皿からとって食べる。数を選ぶ。火が通りやすいし、余らせて弁当にも入れるから都合がいいんだってよ。――いや、冬島家のハンバーグがどうこうってのは脱線だけど、最初に俺が言いたかったのは、俺はあんた抜きで隊長と飯食ったりしてるってこと。冬島隊で行ったとかじゃなくて。隊長と二人のときもある。
「でもあんたはそういうのは違うって言うんだろ?」
「当真だって、違うって分かって言ってるんだろ?」
 この会話を聞かれて困る知り合いや、そもそも聞こえていそうな他の客がいないことを俺たちは把握している。狙撃手の視野はいつだって広い。
「別物だとは思う。分類は同じだとも思う」
「食事とセックスとが?」
 我らが師匠の顔は涼しかった。手元のアイスコーヒーをストローでぐるぐるかき混ぜながら。ガムシロップが二つか三つ入っている。東さん曰く、徹夜明けのコーヒーは糖分を摂取しやすくするための溶媒でしかない、と。何度も聞いているから「溶媒」は覚えた。けど、こうしてファミレスに連れ込んで勉強を見てもらっていても、いまいち頭に入っているんだか入っていないんだか分からない。「分かる」と「分からない」の二択ですらなく、仕組みは解ったがそれを説明するのに必要な単語が身につかない、みたいなこともよくある。
 ただそんなことは、俺がミックスグリルを注文した瞬間に東さんにも分かっている。合いがけのデミグラスソースとガーリックソースが飛び散らないわけがない。ないのに、「ノート広げる気ある?」と苦笑しながらも咎めなかった。
 今夜、課題早く終わったらホテル行きたい。
 と、口にしてはみたが、実際のところ本気じゃなかった。ドリンクサーバーに向かおうとしていた東さんは「ふたりでするのは浮気だから駄目」と予定調和の返答をし、席を立つ。そして氷の入っていないグラスにコーヒーを満載して戻ってきて「冬島さん、今日、開発室に捕まってるんだろ?」と確認した。
 先に隊長に似たようなことを訊いたときも断られたので、師匠にも断られるんだろうなと思ってはいた。が、二人ともが「ふたりでするのは浮気だから」と一言一句たがわず答えることまでは想像していなかった。それは彼ら二人の打ち合わせの成果のように思えた。それこそ浮気じゃねえの。そう思った。“ふたりで”と言うなら、例えば、ふたりで会うことならこれまでにいくらでもあったし、今この状況だってそうだ。そんなことを思うともなく思っていたら、隊長の実家で飯食った話が、口をついて出た。
 そして、東さんは、食事とセックスの線引きを俺に訊いた。
「親しい人と同じ時間を過ごすって部分は同じ」
「一理ある」
「あ、認める?」
「俺はむしろ、セックスとスポーツとを同種のものと見做してた人間だから」
「……過去形でちょっと安心した」
「あはは」
 俺が二人と付き合いたいと言った当時、隊長と師匠はいわゆるセフレだったが、特定の相手を作らない理由は違っていた。一人を探して選ぶのが面倒くさいという隊長と、やりたいときにやれる相手の選択肢は多い方がいいと言う師匠と。そんなゆるゆるの二人だから、俺の申し出が受け入れられたんだとは思うけど。
「――わかってるよ。東さんの言う通り、わかってる。もう屁理屈みたいなことも言わない。あんたの弟子は物分かりがいい」
「もっと困らせてくれても構わないけどな」
「よーするに、『三人で付き合ってる』と、『俺と二人が付き合ってる』は違うってことだろ」
 東さんは深く頷いた。頷いて、厨房の方を見る。ミックスグリルの鉄板を持った店員がこっちに向かってくるところだった。同時に、飾り気のない着信音がどこか近くで鳴って、それは東さんのものが発信源だった。通話の着信ではなくて、メッセージを受信したらしい。画面を見た東さんの表情がほどける。
「当真、このあとデザート食べたくないか? パフェとか」
「考えてなかったけど。なんで?」
「当真が『ここパフェ多い』って言ってたのを思い出した。先月だったかな」
 このファミレスのメニューにパフェはない。『先月』と示されなくても覚えていた。先月入ったホテルはルームサービスのパフェの種類に富んでいたこと。そして俺は、今の今までしていた会話を忘れるほど記憶力が悪いわけじゃなかった。
 店員が鉄板をテーブルに置いて決まり文句の警告をしたが、返答もそこそこに東さんに訊く。
「隊長出て来れるって?」
「出て来られそう、とは言ってる」
 そう言って東さんが読み上げた時間は、かわいそうな隊長に突然詰め込まれてしまった残業にしては長かったが、俺が食事をとって課題をこなすまでの制限時間にしては些か短いような、心許ない気がした。
「面倒なことはさっさと済ませて、ここは早めに出ようか」
 穏やかに微笑する東さんの周りだけが、昼下がりの春の陽だまりのようだった。ただ、この人がいっそ優雅に飲んでいるのは、単品注文したドリンクバーの雑なアイスコーヒーで、そうやって固形物を避けているときの東さんを見るたびに俺は、付き合い始めの頃に本人の口からきいた「腹の内容物を気にしないでやりまくりたいから、やる前は食べない」とかいう身も蓋もない発言を思い出してしまう。ああこの人にもそういう露骨な性欲があるんだなあ、とか、そうまでして入れられる側のほうがいいんだ、とか、そういうことも考えてしまう。
「俺、ガーリックソースの頼んじまったな」
「別にいいんじゃないか?」
 あんたはどこまで予想してたんだ、とも。



 それこそ浮気じゃねえの、と思った日のことをよく覚えている。そう思いこそしたが、それは元隊長と師匠とを――師匠は今でも俺にとっての師匠だ――批難するためのものではなかったから。好きだった。二人のことが。責任の負い方と、負うものを子供に悟らせない手腕、また、その明かし方。匙加減。二人が交わすやりとり、まなざし。表し方は端的で、汲むものは多く。二人が二人であること。憧れた。その点では敵わないと思っていた。そこが好きだった。だから、「敵わねえわ」と思わされるのも好きだった。

 慌ただしい日々をこなすのに精一杯だった時間が一通り過ぎ去った今、東さんを誘うならあの店だ、というふとした思い付きは具体的な願望になっている。正確には、学生の溜まり場と化していたあの店は潰れているが、後にもう少し高価格帯のレストランが建ったから、何にしろあの場所で肉が食えることに代わりは無い。
「肉、食べに行こう」
 選択の余地に乏しい提案をぶつけられ、東さんは面食らったような顔をした。急にどういう風の吹き回しだという質問には答えずに、日数的に今日からはもういいんじゃないのかと問いを重ねる。問い質した、と言ってもいい。すると、微笑の仮面がはがれかけになってしまったこの人は観念して俺についてくるがままになり、店員に案内されたテーブル席についてから、生身の胃袋に食べ物を入れるのは久しぶりだと白状した。動物由来のものを摂取するのも、久しぶりだと。
 浮気の話を覚えているかと訊ねると、東さんはメニューから顔を上げ、視線を合わせて頷く。
「浮気しない?」 
「……当真と?」
 俺が頷くと、東さんは首を横に振った。それだけのことが、終わるには充分なやりとりで、あっけないとも思ったが、それを言い出したらあの人の最期の方があっけなかった。東さんが一ヶ月以上もかなしみに暮れるほどのあっけなさだったから。一度は叶って不意に終わった俺の初恋なんて目じゃないほどの。
 ミックスグリルの熱い鉄板と、見る間に結露していくミニパフェのグラスを、俺たちは無言で迎えた。
「初恋の人って覚えてる?」
 聞きながら、一口大より更に小さく切ったソーセージを差し出した。フォークの先を向けるかたちで。東さんは耳に髪をかけ、俺の手に手を添えてそれを食べる。時間をかけて噛みくだき、飲みこんで、俯いた。音もなく、落ちた髪が顔を覆う。
「――冬島慎次っていう人」
「……俺の知ってる冬島慎次と同じ人?」
「さあ? 当真の知ってる冬島慎次ってどういう人?」
 とぼけるその表情は見えない。が、スプーンを持ったままの手が不自然に動いた。行き場を失くしたように行き来して、机上に戻る。
「頼りになる隊長」
 俺は努めて当たり前のことを言った。そうしないと、それだけ言ってすぐ口を閉じないと、なんで今まで、とか、どうして俺を、とか、そんな言葉が口から飛び出しそうで。
「じゃあ違う人だ。当真の知ってる人とは……」
 机上の手が、スプーンをとり落とし、震えながらソファの座面に沈んだらしい。音がした。
「当真。俺を――俺を、憎んで楽になるならそうしてくれ」
「あのさ」
「……うん」
「そんなことよく言えたよな。泣いてるくせに」
「泣いてない」
 その声の、その有様で、俺を騙しおおせると思っているわけではなさそうだった。あの人ほどではないが、俺だってこの人を泣かせたことはある。この人の涙声を俺は知っている。ただ、このときに至って、俺の知らない駄々が、今となっては行き場をなくしてしまった柔らかい部分が、本人の意思とは関係無くこぼれた。声は、そんなふうに聞こえた。
 二人はどうして俺を二人の間に容れようと思ったんだ。
 あのときの自分は子供だったし子供扱いされていたけど、じゃあ今自分が大人になったのかと聞かれたとして、あの隊長とあの師匠の元で育った俺はどうしても「歳の割には、まだ」と頼りない回答にならざるを得ない。しかも、俺がどんな自認を持とうが制度の上では大人だったし、だとしてもこの人の前で俺はいつまでも、かわいい弟子でしかなかった。たぶん最初から今まで、いつだって。人と人との関係ってきっとそういう、相対的なもので、人間関係は万事が万事人間が認識するものである以上主観的で、だから仕方ないんだと思ってもみた。
 俺がこの人の前でいつまでもそうであるように、この人はあの人の前ではあの人だけの東春秋だった。たぶん最初から今まで、いつだって。俺が気付いていなかっただけで。
 そういうものの一切を差し置いて、今この瞬間、東さんは顔を上げて俺を見た。鼓動が早くなる。
「信じられないだろ、大人のことなんて」
 そう言い放った表情を、これほど凄絶な顔を、あの人が見られないということの方が、俺には信じられない。しかし、東さんはスプーンを持ち直して、バニラアイスの天辺を掬い取った。そのときにはもう彼は誰もが知る東春秋その人でしかなかった。

(了)