まだ上の空なのか。そう思った。
 ドアを開けると同時に「ただいま」と声をかけたが、夕飯の匂いがしている室内からは返答がない。いつもの金田なら「ただいま」に対して「私の家です」と律儀に訂正してくるのに。
 合鍵をキートレーに置き、返事がもらえないまま玄関を通り抜け、勝手知ったるキッチンへ向かう。所在なく突っ立っている金田の隣に立ち、改めて言ってみた。
「ただいま」
「あ……早かったですね」
 金田は弾かれたように時計を見て、自分の認識が誤っていることに気付いたらしい。
「夕飯出来てますよ。ナイフとフォーク出してください」
「箸じゃなくて?」
「キャベツ切りにくいですよ」
「やわらかそうだけど」
「葉脈のところとか」
「そっか」
 卓袱台を拭いて、ナイフ、フォーク、それとグラスは、飲み口が広くなっている手吹きガラスのものを二つ。配膳を済ませた金田が着座するのと同時に二人して合掌する。いただきますと呟き合う。
「今日はロールキャベツです」
 言われなくても、それどころか玄関に立ったその瞬間から分かってはいた。今朝、それが食べたいと金田に言い置いたのは俺だったから。
 ワインの栓を抜いた。

 昨夜の仕合で金田は負けた。俺が、惜しかった、と思ったのと同じタイミングで、会長も「惜しかった」と言った。赤ら顔に好戦的な笑みを浮かべ、会長にとっての対戦相手を――金田を負かした相手の雇用主を――見据えていた。常在戦場の経営者は一瞬だけ俺に視線を投げ、「今度は店で」と言い残して、ライバルの元へと歩き去った。
 常に利益拡大について考えている我らが会長だが、さて、金田の方は何を考えているやら。観客の人垣をかきわけながら、金田の元へと向かう。反省すべき点について? 或いは、実戦で発見した要点について? 一緒に飯食って帰ろうと誘うつもりではある、けれど「ひとりで考えたいことがあるので」ときっぱり断られるのも悪い気はしない。ストイックなところも好きだから仕方ない、と惚れた弱味を自覚してもいる。
「何考えてる?」
「……はい」
「金田?」
「なんですか?」
 簡単な手当を受ける間、金田の目は据わったままだった。
 相手の行動を読み切って勝ったのではなく、また、負けて治療室のベッド送りになっているのとも違う、傷だらけだが意識のある金田……というイメージが俺の中に希薄なせいで、違和感があるだけかと思っていたが。
「金田」
「はい」
「何考えてた?」
「何でしたっけ……」
 深夜営業のラーメン屋にひっぱっていっても、胡乱な受け答えをする。頭は打ってないはずだが。
「負けたにしても、大崩れしなくなって、帰りに飯食う余裕もあるんだから成長だろ」
 文脈もあやふやで多少わざとらしい励ましにも、金田は「そうかもしれません」と生返事を返すばかり。考え込むのはいつものことだが、自分が何を考えていたのか自覚していない、というのは金田らしくもない。そのくらいは分かる。
 結局、近所をはばかりながらの帰路でも金田はそんな調子で、煎餅布団に押し倒しても、痣と傷以外のあらゆる場所にキスをしても、その先の行為に到っても、終始その視線はふわふわ漂っていた。事後、シャワーを使っていいか訊いたら「どうぞ」と答え、俺が戻ってきたときには「どうぞ」の姿勢のままで既に眠っていた。そして夜が明けて、今朝も、金田は全裸で布団の上にあぐらをかいたまま黙りこくって俺の身支度を見届けていた。
 これはもう、そっとしておく他ないのかもしれない。それでも、何か頼まれでもしなければ一日中微動だにしないんじゃないか? 完全に放っておいていいのか?
「晩飯、ロールキャベツつくって」
 そんな疑念を振り払えなかったので、結局、ひとつ頼みごとをして朝日のさしこむ部屋を出た。

「面倒臭いかと思ったんですが、やりはじめると楽しかったです。工作みたいな――」
 金田は言いさして、俺の手元を見て目を丸くした。
「氷室さん! そのワイン、」
 上擦った声で驚いてから「あっ」と壁のカレンダーをかえりみようとして、しかし振り返りきる前に「ああ」と気づきを漏らし、「う……」と言葉を詰まらせた。終いには、青ざめた顔にふるえるまなざしを据えて俺を見る。
「……な、んで、笑ってんですか」
「だって、そんなに驚かなくても」
「でも……すみません」
「いいって」
「ケーキが」
「いいから」
 二つのグラスにワインを等分に注ぐ。金田が用意して、「氷室さんの誕生日に開けましょう」とはしゃいで、昨日の朝までは俺より楽しみにしていたボトル。その本人にすっかり忘れられて、俺が開けた赤。
「それはいいんだけど、何をそんなに悩んでるのかくらいは聞かせてもらう」
 グラスを持ち上げると、金田もそうした。鈍い音の乾杯のあと、金田は色のない顔で中身を一口飲み、視線を泳がせる。
「悩んでは……ないんですが」
 誤魔化そうと思えば誰にも気づかれずに騙しおおせる男の口から出た言葉とは、およそ思えなかった。金田の口調はらしくなく歯切れが悪い。
 話を促すことはせず、ナイフとフォークを手に取った。透き通ったコンソメスープのなかに横たわるロールキャベツを切り分けて、食べる。
「うまいよ」
「安心しました。味見ができないので……」
 金田はそう言いつつも、表情を硬くしたままでいる。自分の皿の上でカトラリーを動かす手もぎこちない。軋む音が聞こえそうなほど、ゆっくりと、吐露する唇は重そうに開いた。
「――強いていうなら、生きてるなあ、と思っていました」
「お前の悩みは壮大すぎる」
「悩んではいないんですってば」
 ちいさく切り分けて、それでもキャベツと肉だねが離ればなれにならないように、金田はそっとフォークを使う。音もなく咀嚼し、嚥下する。
「負けても生きてるなあ、と……負けても大して怪我をするわけでもなく、ご飯食べてセックスしてぐっすり眠って起きてバイト行って買い物して……そんなことを……」
「バイト結局どっちになった?」
「本店の方に」
「遠いな」
「駅からは近いので、便利といえば便利です」
「……で、『生きてるなあ』って?」
「そうです。勝っても負けても――」
 金田はもう一口、自分で作った料理を口にする。
「――日々は続く。どんな有様でも」
 言いながらナイフを置いた金田が、その手をさっと額の前にかざした。俺が指でそこを弾いてやろうとしたのを見切っている。撃ち出す前のかたちで丸めた俺の指を握り留めて、金田は「わかってますよ」と平坦にそう言った。握った手を開く。
「死んでもいいなんてもう思ってません。全て、命あってのことですから」
「……ならいいけど」
 解放された手でフォークをとる。更に肉と野菜を切り分けながら、金田に言い含めるつもりで言葉を舌にのせた。
「生きものって生きてるのが当たり前だからな」
 ――今まで続いてきたお前の日々が、生きているのが不思議だと感じることに慣れてしまうようなものだったとしても。
「生きものなんだから生きてることに慣れろよ、いい加減に」
「……少なくとも、氷室さんに励まされるのには慣れましたよ。いつもありがとうございます」
 ようやくほっとしたような表情になって、金田はささやかに笑った。直視するのが気恥ずかしく、いつしか、俺は目を逸らしている。さらけ出されていること、ゆるされていること、甘えられていること、それら全部がくすぐったい。
「こうやって日頃お世話になってるし、お祝いっぽいことちゃんとしたいです。どうしましょうか……」
「俺、今日お前から聞けると思ってたのにまだ聞けてないことあるんだけど」
「まだ?……あっ」
「それがほしい」
 それさえあれば。
 俺の内心を知ってか知らずか、金田はカトラリーを置いて居住まいを正す。
「お誕生日おめでとうございます」
「……あ、そっか」
「えっ」
「それもまだだったな」
「は……えっ? 今日、他にあります? まだ言ってないこと」
「いや嬉しい。すげー嬉しいよ、ありがとう」
「ちょっと、あの、ちゃんと言うので! 教えてください! 今日ですよね? 今日言うことって他に……」
「あー、うん、今日に限らず」
「範囲広げないでくださいよ、ヒントになってないじゃないですか」
 前のめりになってまで詰問してくる金田の勢いに笑ったあと、二人の中間地点に置かれているワインボトルを指差した。恥を忍んで、聞きたい言葉を打ち明けるために。
「これ、楽しみにしてただろ。……どうだった?」
 うまかった?
 訊けば、金田が一度大きくまばたきをして、にやっと笑った。その弓なりの物言わぬ目が「もう答え言ってるじゃないですか」と雄弁にからかってくる。うるさいな。
 自分のグラスをとって、金田は半分ほど入ったワインをこくこくと確実に飲み干した。
「おいしいです」
 やっと味がわかるようになりました、余計な考えが頭から出ていったので。金田は苦笑しながらそう言った。
「――それは何より」
「こんなのでいいんですか」
「『こんなの』って、俺は毎日聞きたいけど」
「こんなことだったらいつでも言いますよ」
「一緒にいるときじゃないと聞けない」
「ああ……そういうことですか……」
「なに、金田、ほんとに分かってる?」
 わかってますよ。金田はむきになった言い方をした。今度は大きく切り分けたロールキャベツの一片を口に入れ、頬を膨らませてもぐもぐ食べる。ごくんと飲み下し、ワインを注ぎ足しながら、そのままの口調で言い足した。
「分かってるので、氷室さん、明日も私に『ただいま』って言ってみてください」
 そしてすぐにその唇にグラスを押しつけて、平静を保ったつもりでいるようだった。明日「おかえりなさい」を言う唇は、美味そうにワインを飲んでいる。
(了)