二人ですき焼きを食べるときの、冬島さんの最初の一口が好きだ。
 一番に口にする肉の、そこに絡んだ溶き卵の、その全然“溶き卵”になっていないような様が好きだ。黄身は破れてその全容を晒しているが、白身と黄身は別々のまま、透明に純白のハイライトを浮かべ、てらてらしている、その一口目の卵。すき焼き用として売られている肉はどうして一枚が大きいんだろう? その大きいままの一枚を、どうしても一枚のままで食べたいらしい冬島さんが、それを口にいれる最初のときが。
 箸を遠めに持つ冬島さんは、決まって、黄身のまんなかに箸をいれる。突き刺すのではなく、挟むように。直径の端と端という意味のまんなかで、まっぷたつに黄身を割る。こっくりとすらしている黄色があふれる。新鮮な卵の黄身は、それでも、決定的に身をもちくずすということはなく、曖昧なかたちのまま、白身のなかで揺蕩っている。そこに火のしっかり通った一枚肉――あらかじめキッチンで野菜も豆腐も白滝も、その肉だって、ぐつぐつ煮立ててから卓上へ持ってくる――を、箸で卵黄を割いたのと同じ軌跡でくぐらせて、裏返し、浸して、畳み直す。弾力のある白身の、てろてろしたのをまとった鈍色の肉を、口に、入れる。
 ほんの一時だけ覗く歯はすぐに隠されて、肉に触れるのは上下の唇だ。薄切りの一端を捉えた唇に、粘度の高い卵が冠する真っ白な反射光の筋が貼りつく。その下では、器用に動く箸がカラザを巻き込んだ白身をそぎおとす。絡めたのに、しごきおとしてしまう。それでも表面に残る黄身が、濃色の差し色をこびりつかせている。冬島さんの動かす先の平らな割り箸の、たぐりよせるような手管で口の中に、その肉が収まりきる。
 唇同士の重なった線がゆがみ、口角がそうっと持ち上がる。濡れた唇の表面同士が一瞬重なって見えなくなる。そこを割り開いて薄赤い舌が覗く。短い光の糸を切って、舐めとって。丸みを帯びた頬のその奥では、音もなく肉が咀嚼されている。俺の見えないところで。

 一連の流れを、好きだと言ってみたことはない。そもそも、見ている最中に何かを言えた試しがない。どうしても見とれてしまうので。
 ゴクンと嚥下する喉のうごきを見て、直後あふれた冬島さんの悦に入った溜息に重ねるように、訊ねた。
「美味しいですか」
「うまい」
「それは何より」
「罪の味がしてさらにおいしい」
「はは、なんですかそれ」
「だって、こんな夜更けに。もうほとんど夜食の時間だろ。なのに鍋も、酒もあって」
 言いながら、冬島さんは箸を持ったままシャンパングラスを持ち上げた。ひとくち中身を飲み下し、目で物を言う。「お前も食え」。何の思い入れもないスパークリングのロゼは、乾杯の直後に一口飲んだが確かにうまかった。それを、目の前の男はいっそう美味しそうに飲む。
「残業したんだし、いいじゃないですか」
「あれはそもそも引きとめられるのがおかしい。特別な日だっつってんのに」
「普段いる年長組が二人まとめて抜けるんで、ですかね」
「頼りにされてて嬉しいねー。なあ東くん」
「焼き豆腐これで全部ですか?」
「うん。沈んでるんじゃないの?」
 盆の上には、ラップを剥いだだけで肉がそのまま並んでいるプラトレー、布巾が三枚、ワインクーラー、殻入れ、湯冷ましの片口。肉が一枚減ったら一枚入れる。綺麗にサシの入ったピンクを取り箸でつかみ、卓上コンロで引き続き温められている土鍋に入れた。
 それから自分の取り皿にも卵を割り入れ、執拗に溶きまぜる。冬島さんが好むように、食べながらまざっていくようにはしない。最初から白身の触感が残っていない方が好きだ。
 これを言うと不思議がられる、というか、ニヤニヤされる。「どろどろしたもの好きだろ」とか言われた。最低だなぁと思う。そういうのが気楽で、好きなんだけれども。

 神経質な父のことが頭を過ぎった。父の取り皿に入る生卵は、母がカラザを外して綺麗に溶いてから供さないと怒鳴り声が飛ぶ。
 すき焼きとは何と窮屈な食べ物なのか。そう思っていた。

「これかなり当たりだったな」
 冬島さんの声で我に返る。細長いグラスを置き、既に二杯目を注ごうとしているその手に布巾を差し出した。ワインクーラーといっても、大きい花器か何かを流用していて、氷を満載した器に瓶をうずめているだけの代物だった。当然、水は滴る。
「肉の直後に飲むとうまい」
「それはよかった」
 食べ進めながら都度グラスを傾けてみれば、なるほど、言われたとおりに『肉の直後』に一番合う。
 冬島さん好みの濃い割り下の味に、負けず劣らず華やかで、しかし主張しすぎない匙加減。特に、舌に肉の脂が残っているとき、それを冷えた炭酸が濯いでいくのも気が利いている。次の一口が楽しみになるような。
 感心して、グラスのなかで細く長く立ち昇る泡を見つめてしまう。すると、対面から視線を寄越す男が忍び笑いを漏らした。
「『なるほど』って顔してる」
「そんなにわかりやすいですか」
「仕事中はやめたほうがいいくらいには」
「はじめて言われました」
 この人には、今年も色々なことを見透かされている。

「じゃあ海老天はぜったい無いとダメだろ、東くん的には」
「なんでそうなるんですか。さっきまで――」
 残業のあと、夜食もとい夕食の買い出しのために寄った閉店間際のスーパーで、そんな話になった。
「――なんですき焼きと蕎麦なんだ、って話をしてたのに」
 大晦日の夕食の話だ。
 東家では、俺が物心ついたころから大晦日には年越し蕎麦と決まっていた。疑問を持ったこともなかった。
 一方冬島家では、すき焼きと蕎麦が慣例らしい。「なんでメインとメインなんですか、大晦日だけ急に倍になるのはどうして」と食い下がる俺に、「それぞれの量が一人前無いくらいだから別に変じゃない」と冬島さんは応戦した。彼の方でもそれを疑問になんか思ったことがないという顔で。それにしても蕎麦がデザートってどうなんですか、いやデザートじゃなくて蕎麦も飯だから、と詮無いやりとりをする成人男性二人の上に、店内放送の蛍の光がふりそそぐ。
「量抑えれば二種類食べられる、っていう俺の主張に異論はないんだろ」
「……はい」
「ってことは、天蕎麦じゃないの」
「冬島家は天ぷら蕎麦なんですか? うちはかけ蕎麦でしたけど」
「えっなんで?」
「なんでって……何が」
「だって東、天ぷら好きなのに。実家だとここぞとばかりに出てくるのかなーと」
 そう言われてみれば、気にするべきところなのかもしれない。けれど正直なところ、両親も、自分すらも気に留めないことを、この人に知られて記憶されていることの方が不思議だと感じる。それを嬉しいと思ってしまうことも。
「そんなことはなかったですね」
「そうなの? 聞く限りじゃかなり粛々とした年越しだな、東家」
「……元旦の朝にリビングで両親に年始の挨拶とかしました? 正座で」
「えっ何それお前そんなことしてんの」
「もうしてませんよ。最後に帰ったのいつだろう」
「あーだから、お前……納得した。だからお堅い親みたいなこと言うのな」
「さっきのですか?」
「『松も取れぬうちから未成年を働かせるのは気が引ける』とか何とか」
「勉強が本分でしょう。……学生は。そうじゃないのもいるけど」
「気にしすぎ。今時コンビニバイトの高校生も元旦から出勤してたりすんだから」
「そういうもんですかね」
「しっかりやってこい! って送り出してやるのが、いい親だと思うよ俺は」
「あのー、親じゃないです」
「親みたいなこと言ってんの。あと目つきが親」
「言いがかりだ……」
「だってお前、隊員のこと『うちの子』とかいうじゃん」
「言葉の綾でしょう。せめて師匠とかになりませんか? 子供たちは弟子を自称してるんで」
「ほら、また」
「は?……あ。いや、だから言葉の綾……」
「ふーん?」
 歩幅を大きくした冬島さんが斜め前からわざとらしく顔を覗き込んでくる。手を振って追い払うと、そのにやけ顔のいやらしさに反してそれ以上の追撃はなかった。
「ところで東」
「はい」
「『松も取れぬ』の、松っていつ?」
 この人は頭いいのにどうしてこうなんだろう。

 ガスコンロの前に立つ冬島さんの鼻歌が、気まずそうに止まった。俺がまだテーブルの片付けをしていると油断していたらしい。
 それを歌うにはちょっと早いんじゃないか、と時計を見る。しかし、日付が変わっていたので何も言えなかった。
 換気扇脇の簡易照明、そのオレンジの灯りに照らされた顔がそっぽを向く。ついでのようにタイマーを見ている。
「東、洗って」
 ボウルごと蕎麦の入ったざるを渡された。麺を流水でザバザバ濯いでぬめりをとっている間に、冬島さんは蕎麦つゆの味見をしているようだ。その横顔を盗み見る。そして、隣に置かれた皿を。
 ケーキ用ろうそくが突き刺さった海老天が、皿の上に鎮座在している。馬鹿みたいだ。
 三本の海老天に五本のろうそくは、冬島さんの年齢とも俺の年齢とも関係のない数字だった。が、それは、一袋五本入りのそれを見つけたこの人が悪乗りしたからというだけで、深い理由はない。リカーショップで最初に見たスパークリングワインを手に取ったことといい、何もかもが行き当たりばったりだなぁ、という思いを噛みしめる。その「行き当たりばったり」に居心地の良さを感じてしまうので、手に負えない。
 味噌漉し用のざるに濯いだ蕎麦を移し替えて、また手渡す。一人前には足りない量だから、汁椀でも充分だろう。味見の終わった蕎麦つゆを注ぐと、見はからったように温められた麺が盛りつけられる。そして、かちん、ライターの着火音がした。ろうそくにも火が翳される。
 さっきまでの鼻歌を冬島さんは歌う、今度は間延びした独唱で。
「はーっぴばーすでーでぃあ、東と俺〜」
 字余りがすぎる。
「っ、ふふ」
 知らず、自分の口から笑声が漏れていた。
 ちろちろと頼りない炎を戴いた細いろうそくが溶けていく。五本目に火が付く前に、一本目は溶けた蝋を溢してしまっていた。
 歌い終え、照明の明かりを落とした冬島さんが苦笑している。
「はやく東、ふーってしろ、蕎麦が伸びる」
「俺がですか」
「こっちが火つけてんだから」
 海老天に顔を近づけて――変な光景だ、今後二度とやることはないだろう――覗き込むように髪を耳にかける。加減がわからず、二度息を吹きかけると、ようやく火が消えた。
 わー、とおざなりな歓声っぽい台詞と、まばらな拍手。そのぞんざいな対応に、恨めしい表情を作って向けてやる。すると、存外嬉しそうな笑顔をしているので面食らった。下瞼の弧にまで喜色を湛えて、少年みたいに。
 子供みたいな笑顔をした年上の同期は、手首にはめていた髪留めを一本貸してくれた。そして、パステルカラーの蝋が垂れた海老天を、一本多く俺の椀に入れる。
「これ何ですか」
「天ぷらも東に食われた方が多分嬉しいぞ」
「……冬島さんって優しいですよね」
「そこはお前、冬島さんの優しいところ好きですー、とか言えよ」
「褒め方に注文つけなくても……冬島さんのことはいつも好きですよ、それでいいでしょ」
「あらぁ素直ね、かわいいわね春秋くんは」
 照れ隠しに科を作った髭面の男が、暗い壁の方を向いて汁椀に口を寄せた。そのあからさますぎる仕草が、有体に言ってしまえば面白く、竦められた肩に顔を近づける。
「それ、こっち見て言ったらどうなんですか?」
「東近い、待て、こぼしちゃうから、食べてからちゃんと言う」
「自分でハードル上げましたね」
「……うん。今すごく後悔してる」
 言いながら冬島さんは汁椀に口をつけて、困ったように眉を下げた。短い睫毛をおろして、薄い瞼が瞳を覆う。長いまばたき、現れた目は蕎麦つゆの水面を見つめ、そっと、窺い見るように上目遣いの視線が這い出して俺を射す。
 そこで初めて、はにかむ仕草の一部始終を見られていたことに気づき、またすぐに冬島さんの視線は、脱兎のごとく逸れていった。
 このまま見ていたら照れるのを通り越して笑いだしかねないな。そんなことを考えた。正面から人の噴き出した蕎麦つゆ浴びたくないな、とも。浮かんでくる蝋を箸で寄せながら、年越しなんて疾うに過ぎ去った年越し蕎麦を食べ進める。
 このひとと過ごす休日は、どうにも、笑っていることが多くなる。幸せ、だなんて、信じられないほど甘い言葉が脳裏に浮かんでしまった。
 とぼけた考えを頭から追い出して、またいつの間にか笑みのかたちになっていた口唇を、蕎麦つゆだけが残っている椀につける。こくん、こく、薄目の味付けが舌に優しい。すき焼きのあとでも蕎麦は美味しかった。ふ、と息を継いで、角度をつけて飲む。ちょうど飲み干す最後のひとくちに重なるタイミングで、先に食べ終えていた冬島さんが息だけで笑って、囁くように訊いてきた。
「なんかいいこと考えてんの?」
 俺がこの人を見ているくらいには、この人も俺を見ているらしく。
「東、首まで真っ赤。……かわいい」
 ということだそうだ。顔が熱い。
(了)