風間が目を見開いたのは、その厚さが目に留まったからではなかった。その表紙写真の怪しさに驚いたのとも――諏訪にしては珍しい選択だとは思ったが――違う。
 諏訪の手にした文庫本の、そのタイトルに目を奪われた。 「なんで今そんなタイトルの本を?」と、内心ではそう思ってすらいる。
「お疲れ」
 視線を上げた諏訪が短く言い、ノンブルを一瞥してから躊躇なく本を閉じた。諏訪が手にしていた文庫本は、支えていなくても自立するほどのページ数がある。ぱたん、と厚みのある音がした。
「栞入れなくてよかったのか」
「読んだことあって話覚えてるから」
 内容を覚えていても尚読み返す本ということは、単に気に入っているものなのだろう。風間は、深くは考えないようにして諏訪の向かいに腰を下ろした。そのタイミングで店員がテーブルに寄ってくる。
「取りあえず生ふたつ」
 言いながら、諏訪はハンガーにかけたコートに手をのばしている。ポケットの中からメールの着信音が聞こえていた。画面を見るやいなや、露骨な溜息を吐く。
「来れなくなったってよ」
 今日この場に来る予定があり、かつ、まだ来ていないのは寺島だけだった。
「二人になったな」
「メンバー半減だ」
「何があった?」
「さぁな。『今日むりそう』って、変換すらしてない。ほら」
 諏訪が手首を返して、その短文のメール画面を風間に示す。
「一応訊いてみるけど、この調子じゃもう見てないだろうな」
 後頭部を掻きながら片手で返信しているらしい諏訪を見ながら、風間は、寺島が帰り支度を整えた直後に何らかのトラブルに引っ立てられている様を思い浮かべようとしてみた。首根っこを掴まれ引きずられながら、変換もそこそこにメールを送信する様を。何があったのかは分からないが、もし間に合ってこの場に合流できたら思う存分苦労話でも愚痴でもきいてやろう。風間がそんなことを考えている間、向かいで諏訪も似たような心づもりをしているが、お互いに気付いてはいない。
「木崎の方は聞いてるか」
「玉狛の食事当番のローテが変わったとかどうとか」
「――三雲は、まだ目が覚めないな」
「何食う?」
 露骨に話題を逸らした諏訪が真っ直ぐに風間の目を見据えている。有無を言わさぬその視線に負け、風間は厨房の方に目を向けた。この店では、厨房脇の卓上黒板に『本日のおすすめ』と称して日替わりのメニューが掲出される。仕入れ次第なので来店するまで分からない。今日のメニューには冬の魚が多い。
 ジョッキを持ってきた店員を呼び留め、注文を済ませた。諏訪が突き出しの小鉢へ伸ばした手を遮るように、風間は結局あの文庫本について口にしていた。
「さっきの本、ホラーなのか」
「いや、ミステリ」
「あの表紙で?」
「珍しくもないぞ」
「タイトルもホラーっぽかった」
「やけに食い下がるな?」
 訝しげに風間を見る諏訪が小鉢に指を入れる。緑の鮮やかな莢を摘まんで、片手で枝豆を口のなかに押し出す。
 お前がそんな本読んでるからだろ。風間は思い浮かべた言葉を発する代わりに、訊ねた。
「どういうタイトルなんだ、あれは」
 それを言ってしまえば、諏訪には思い当たることがあったようで、豆を嚥下してから唇を左右にニヤリと引く。
「人間」
「は?」
「人間が箱になる話なんだよ」
 その言葉は、今の風間にとってはあまりにも意味がありすぎた。目眩にも似た圧迫感に、風間は絶句させられている。
 一方、諏訪は変わらず笑っている。笑っているが、言葉に詰まる風間の姿を見てしまったことで、目の奥にだけ、親しい人間にしかわからない反省の色が滲み出ている。だから、風間は無言で諏訪を許した。諏訪のその悪趣味を。
「――そういう話だから、読み返したくなった」
「悪趣味だ」
「スプラッタ沙汰には慣れても、SFには慣れないか?」
「お前たちがああなったのはSF沙汰じゃない」
「風間、みなまで言うなよ」
「親しい人間が箱になる事態に慣れている人間なんていない」
「言うなって」
 諏訪は目を逸らしてカウンターの奥の厨房を見た。天ぷらが揚がるのが存外に早い。
「幸か不幸か、トリックなんてないんだ、この世界はSFっぽいが『っぽい』だけの場所であって」
「空想科学みたいな仕事をしているとはいえ、な」
 店員が和風サラダと刺身の盛り合わせを机上に置いた。赤身のピンとした切断面が鋭い。醤油に山葵を溶いている間に、ワカサギの天ぷらが隣に並んだ。衣の下から透けてみえるうつろな目。
「俺がそうだったように、どうにかなるときはどうにかなる」
 言い切るか言い切らないかのところで、諏訪が天ぷらを一尾、無頓着に頭から齧った。
「『どうにかしてもらった』の間違いだ。そっちは固まってただけで――」
「熱ッ」
 風間の言葉をいくらも聞かずに、諏訪が顔を顰めてジョッキを煽る。口内をビールでじゅうぶんに冷やしてから、軽く息をついた。
「で、何」
 途端に、風間の指が伸びてきて、諏訪は鼻をつままれる。
「い、ッ、おま、ほんとに何なんだよ」
「ふてぶてしさに感心して、思わず」
「鬱陶しい」
 吐き捨てる口調を表しつつ、指を退ける諏訪の所作は優しかった。種も仕掛けも慈悲もない世界でするやりとりにしては、充分すぎるほどに。
(了)