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ぼくはこんなことを考えている

結局下の下の記事から間が空いてしまったので新しく記事を作りました。
そして考えも結局綺麗にまとまらず散らかして書く。


●メタ表現ということ

松野家のニートたちがニートであることって、とても残酷だなと当初から思っていました。
六つ子はあの昭和と平成の境の、ギリギリ日本が明るかった時代に本来なら埋まっていたはずなんです。キラキラした時代に一番良い子ども時代を過ごしてそれで終わりだったはずが、こんな暗い時代に起こされて、しかもそんな世相だからかニートでクズで社会の底辺で。昔はクズでも社会的強者的だった(まあイヤミなんかはルンペンっぽかったりもしますけど今回は平成の六つ子のリアル軸を主として見てます)、豊かな家に育つ「普通の家庭」というのは今の時代から見ればとても贅沢です。
それが今じゃ家はあるけど本人たちはニートで、なんかぶっちゃけ就活どうなるか分からなかった私にすごく重なるんですよ。豊かな家に生まれてよい暮らしを送らせていただきましたがいざ育ってみたらそんな暮らししてたんじゃダメな厳しい社会だったのでクズ路線は大いにありえましたしぶっちゃけ今でも遊びほうけてますね。遊ぶか貯蓄するかの二択です。
だから、メタ的に六つ子がギャグを言うとき、とてもヒヤヒヤします。私がこの世界をメタで見たときに果たして神をうらまないでいられるか?っていう。こんな時代に誰がした、っていう憎しみを割りと長らく抱いています。よくわからないけどきっと私たちの世代は不幸なんだ、バブルがうらやましいしうらめしい、っていう感覚がぼんやりとありますので。そしてもう今が最高と転がるしかない気持ちが共にあります。
でも六つ子は自分たちをけして不幸ぶらないのですね。これがメタ表現において重要なのだろうなと思われました。六つ子が救われるには、六つ子自身が自らを卑下してはいけない。そのことは逆に、六つ子に感情移入した私たちに、この世界も悪くないんだと思わせてくれるのかもしれません。
だから私は中でも、いつも笑ってる十四松が好きだし、あのメタを極めつくした「十四松と概念」であんなセリフを言ってのけた彼を一生忘れられないのでしょう。


●二次創作について

最近ふと、二次創作には本編補完型と完全if型の二種類があるんだなあと気付きました。遅!
んで、本編補完型の人にとっては本編を解釈した上でそれを下敷きに創作をしないと辻褄が合わないと気持ち悪いけど、完全if型の人は直感で萌えるもの作ってるだけのことが多くて、互いにそれを理解してないと地雷踏んだ挙句ドロ沼になったりするから大変だなあと思いました。
私は補完のための考察をしつつ完全別のところで直感萌えも散らかしてたり、直感萌えをこじつけるために考察したりするのが好きかも知れません。でもひたすら直感で萌えるのもそれはそれで、作品にいろんな可能性を見い出しているという意味ではとても有意義だし素敵なことだと思います。めっちゃぶっ飛んでるパラレルとかね。まあ直感で無理なものもあるから難しいんですけどなるべく頭は柔らかくしておきたいものです。


***

「こっち側へ」と歌われて、あちらを指差すのが大好きです。
大好きなので、ずっとあちらへは行く気はないのに、あちらへ行きたがっているような素振りをします。 
永遠の片思いが好きなタイプ。片思いしてないと生きていけないタイプ。恋に恋してるのとはちょっとちがう、もっと冷静で大人びてる感覚、っていうのは、六つ子という枠から出ようとしては帰ってくる彼らに似ているなあとぼんやりと思いました。

おかえりなさい

混ぜるな危険ポップン収録、おめでとうございます。ありがとうございます。
かつての私のように、ここからポップンやオーケンの世界へやってくる人がいたらいいなとか、どんな譜面になるだろうとかいったキラキラした気持ちや、4年前の悲しくてつらい気持ちが報われるような気持ちや、なぜか私に向けられるお祝いの言葉への感謝の気持ちや、それからたくさんの言葉にできない気持ちが溢れて、どれを誰に届けるのかわからなくなってしまうほどでした。

嬉しいです。釈迦が繋がって届いた今日だったと思いました。
会えるのは、水曜日!
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