金曜ロードショーでやってた映画トワイライトを途中からでしたが見ましたー。
「君は僕の全てだ」とか「君のいない世界に生きる価値はない」とか、それだから「殺してくれ」とか。
そういう台詞を聞いてすごくげんなりしました。
個人的な意見としては、『いや、生きろよお前』という感じです。
映画のエドガー好きになれないなあ。
原作読んだの結構前ですが、あんなストーリーだったっけ?と感じたので近いうちに読み返して見ようと思います。
なんかだいぶストーリーが違ってる気がしたんだけどなあ。
冒頭に戻るのですが、相手と自分を同一視するような発言にうへぇ……;ってなります。
ドラマや映画でよく聞く台詞ですけど、個人的にどうにも受け付けないです;
どう足掻いたところで、相手と自分というのはどうしようもなく別物なわけで。
別の生き物なわけで。
だから、相手が自分の全てになんてなりえないわけで。
というかそもそも『全て』って何だよというのもツッコミたい。 本当に『全て』なら身体とか記憶とかそういうものまで自分=相手になるじゃないですか。
でもやっぱりそれってありえないし。
自分=存在意義=相手という図式なのかもですけど、自分の存在を丸々他者に託しちゃっていいの?って思ってしまう訳ですよ。
自己の形成において、他者の存在が欠かせないのは分かってますけど、自己=他人ってすごく矛盾してません?
それを「愛」の一言で片付けてしまうのに違和感があるのかなあ。
あと、似たような台詞で「君の全てが好きだ」とかあるじゃないですか。
あれ聞くと表面上は素敵とか言ってても、内心は「お前がそいつの何を知ってんだ」って毒づきたくなるんですよね。
その台詞の「全て」っていうのは、大概相手に見える範囲の全てなわけで。
絶対に、知らない部分の10や20はあるはずなんですよ。
そこに絶対相容れない部分があるかもしれないじゃないですか。
それなのに「全て」が好きだなんて、笑わせるなと言いたいのです。
仮にその台詞が「見えない部分まで(相容れない部分も)全部好きになる覚悟がある」という意味であるとしたって、そこにはどうしたって「見えない部分」の想定が無意識に入ってしまうでしょう?
想定、つまり、その台詞を言った側の基準における「見えない部分」の最低ラインがどこかにあるはずなんですよ。
例えば、「実は部屋が散らかっていても許せる」という風に思っていても、『散らかっている』の基準はそれを思ってる人の中のイメージに過ぎないわけです。
そのラインを下回ったら――この場合でいうなら、例えば、足の踏み場所もないくらい散らかっているのを想定していたのに、実際に見たらゴミ屋敷レベルだったとか――そしたら受け入れがたいでしょう?
この例えは物理的なものですけど、それが精神的なものとか相手との関わり方になると、尚更受け入れがたいし、折り合いを付けにくいと思うんですよ。
絶対好きになれない部分もあるはずなのに「全て」が好きだなんて、結果的にそれは嘘じゃないですか。
あと、好きになれない部分を無理に好きになろうとするなんてのも、もってのほかだと思うんです。
そんなんじゃいつか疲れて関係が維持出来なくなっちゃいますよ。
個人的には別に全部を好きにならなくたっていいんじゃない?という考え。
「全て」が素晴らしいって考えに異を唱えたいのです。
そういうわけで。
結構ツッコミ所もあるであろう持論ですが私の中ではこれが基本スタンス。
ともかく、その手の台詞嫌いなんですよねー、私。
なんか、恋愛小説も書く人間がこんな夢のない話をしてすみません;
でも、だからこそ、自分が書く時にはその手の台詞に出来るだけ気をつけているつもりです。
つもり、です。
世間的にそういう台詞の需要があって一般に広く溢れてるので、たまにうっかり使ってるかもしれないですが。
一応、注意してます。
まあ、要は私が妙なところで妙にリアリストであるという話でした。
多分、そういう観点において、ものすごく冷めてるのだと思います。
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ラブファンタジーを素直に見られる可愛い女の子に憧れます。