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主従関係の先にあるもの


主従の関係性において私が目指す先を言葉にするのは難しい。


私の語彙力が乏しいこともあり、これを書いてもおそらくは違ったニュアンスで伝わってしまう恐れがあるからだ。

しかし、このことを書かない訳にはいかないので、チャレンジして書いてみようと思います。

まず私が「主従関係」を定義づけするとすれば、それは「支配と服従という手段でもって、加虐と被虐という性癖を満たし合いながら好みの奴隷に成長させると共に、人間を相互に成長させていく相乗効果を生み出す関係性」ということになります。

随分と大業なことを言いましたが、これはあくまでも理想です

いや、目標と言うべきかもしれませんね。

目指しているわけですから。

つまり、私のやっていることは、この目標を成し遂げるために、日々、軌道修正をしながらその関係性を継続するための行為をしているということになります。

その過程で必要なことが関係性の強化であり、その具体的な一つ一つの行為が成長へと繋がっていくのです。

ただし、好みの奴隷になるように育てるには、人間的な部分を成長させないとなかなか思うようにはいきません。

日常における人間としての未熟さが障害になると言ってもいいかもしれません。

しかし、人間的な成長を遂げることは、一筋縄ではいきませんよね。

固定観点や世俗のしがらみなど邪魔になるものもあります。

そこで、私は逆説的に考えるようにしました。

私はSMの主従関係は、ある意味、一般社会におけるあらゆる関係性(とりわけ上下関係)の縮図であると感じています。

従って、大雑把な言い方お許しいただけるならば、主従関係の中で成長するために学んだ成果は、日常の場面において概ね活かせるはずと信じています。

というより、積極的に活用すべきです。

我々のような性癖を持つ者は、考えるという行為を好んでしているような気がします。

だから、活用する気になれば前向きに取り組むことも難しくはないはずです。

そして、日常において、幸いにも人間的な成長を遂げた暁には、晴れて好みの奴隷へと近づくことになるわけです。

であるならば、そうなると、調教で扱う「成長」の範囲はどこまでも広くなります

実はこの広がった先にこそ、私の真の目指すものがあります

それは、このように定義付けした関係性を通じて、奴隷を日常の悩みや困難から離してやることです

私好みの奴隷になること(奴隷の成長)=人間的な成長を遂げること

奴隷の成長が厳しい調教に耐え忍び一皮向けることと同様に、人間的な成長が日常にある困難を乗り越える糧となることは疑いようがありません。

勿論、そのプロセスにおいては、私自身の成長も不可欠です。

まあ、平行して奴隷が私を育ててくれる、成長させてくれているのですが。

なんだか、ややこしく考えすぎと思われたり、めんどくさそうに見えるかもしれませんが、
、私にはこれが楽しいのです

これが私なのですね

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