あけましておめでとうございます。どうか今年こそは私を精一杯生きて日々死んでいくことが出来るよう、精進致します。小野寺です。




新年早々に、壁は私の前に立ちはだかるのです。他人のことなど、自分のことさえろくに理解出来ていない私になんて分かり兼ねます。冬は鬱の時期らしくて、参ってしまって両手を上に項垂れることしか出来ないのです。




もし、この世界に言葉を残して死ねると言うのなら、断言致します。自分以外のものを信じて正しかったことなど皆無。それを正解不正解ではなく、自分の物差しで良し悪しと判断できるような人間に成れたのであればそれこそが幸せなんだろうと思います。




裏切るものだと思うから、そこに負の念が積もるのでしょう。それは誰の為か、何の為か、どういう思いでそうなってしまった裏切りなのかを知ろうとする意思さえ持てれば、それはすこしでも意味は変わるのではないだろうか。もちろん、前向きな意味で。




ところで他人にどうこうと自論をトントンと語っている私ですが、どうでしょう。1番の厄介は1番近くにいるのです。そう、私自身でありました。溜め込んだ思考は睡眠まで侵食してしまう。私は今冬、不健康をまっしぐら。




溢れ出した芸術性というなのうんちく、思考を私は止めることもせずにただ流れる先を見つめては、どこまで行ってしまうのだろうと至極どうでもいい台詞を浮かばせる。形に出来ずに苛立っている毎日でさえ、私を形成するためには必要不可欠だと言い聞かせて。




どこまで行ってしまうのだろう。言えるのは、どこまで行ったところでそれはいつまでも足を揃えて私を待ち構えている、否、歩幅を揃えて付いてきてしまうのでしょうね。





霜焼けで私は我にかえる。
どうやら冬はもう少し続きそうだ。