脳内シグナル
エウメニデス@
6月2日 03:53
見上げればいつだって見えていた背中は遠過ぎて、手を伸ばすたびに宙をきる自分の弱さが悔しくて仕方がなかったのを覚えている。
子供の頃から憧れていたヒーローに、俺はいつになったら届くのだろう
【例えばこんな日常】
「……目が、痛い……」
瞼の上から目を押さえ、悠は情けない声で呟いた。
デスクトップのパソコンに向かい簡単な入力をひたすらにこなす作業を続けること約二ヶ月。何だこの苦行はと内心泣き言を言いながらも続けていれば慣れるもので、漸くペースも落ち着いてきた事に胸を撫で下ろしながら目薬に手を伸ばす。
覚えが早い自信は有ったのだが、どうも機械関連だけは別らしい。これは現代人としてどうなんだ。
「あっ、そっち終わりました?」
自分の能力を嘆きながら固くなった身体を伸ばそうと立ち上がった所で声をかけられた。
彼は堀江蓮介。高校時代の後輩で、この事業所は彼の親戚の家にあたる。
疲れた表情を消してから振り返れば、手に抱えた大量の荷物で彼の顔が半分ほど隠れていることに思わず苦笑い。そのまま近付いて上から半分程持ってやればあからさまに慌てる蓮介にまた笑いそうになった。
「だ、大丈夫ですよこれくらい!」
「前見えないと危ないよー?」
「いや、でも重いし。」
「重いから俺も手伝うんでしょ?」
「はるさんちっさいし。何か潰れそうだし。」
「お前がでかいんだよ俺は普通だ!」
思わず荒い口調で否定しながらも半ば強引に手伝うことを引き受けて、後どれだけ残っているのかを問えば視線の泳ぐ相手にバッチリ嫌な予感しかしない。
そして案の定山のように積まれた荷物に愕然とするはめになるのだから、最早期待を裏切らない事を誉めるべきだろうか。
「……声、かけてよ。」
「だってはるさんはそろそろ休憩時間じゃないですか。」
「コレ放置で休みになんか行けるわけないでしょ。俺どんだけ薄情なの。」
頭を抱えながら深い溜め息を吐き、さっさと終わらせようと適当な山から荷物を抱える。ずしりと腕にかかる重量に口元を引きつらせてからまた溜め息。別に一人でしなければいけない仕事では無いだろうに。
そのまま二人で四階にある資料室まで往復する事七回目。
そろそろ注意も散漫になってきたのか早く終わらせたかったのか、今までより多目の荷物を手にした蓮介は階段をかけ上がった所で足を滑らせた。
「蓮介!」
目の前で傾く彼の姿に咄嗟に身体が動き、持っていた荷物を投げ出して手を伸ばす。
彼の身体が地面にぶつかるより先に受け止める事に成功するも、自分より体格のいい相手の体重と抱えていた荷物の重みをダイレクトに受けて息が詰まった。
支えた右足に違和感。体勢をミスしたと気付いた頃にはもう遅く、そのまま耐えきれずに床に倒れ込む。
頭だけは打たないようにと気を付けて、どうにか受け身をとるも潰された身体が衝撃で痺れて息苦しい。
「……ッ……大丈夫?」
「え、え? はるさん!?」
「大丈夫そうだね……ごめん、退いて。苦しい。」
「うああああああすいませんッ!」
勢い良く飛び退く彼に苦笑い。同時にあらぬ方向へと転がって行った段ボールからバサバサと資料が散らばり、片付けるのが非常に面倒臭そうな状況になった。
「気を付けてねー?」
「すいません! 大丈夫でしたか?」
「んー、大丈……」
言いながら立ち上がりかけたところで不自然に言葉が途切れる。右足首を手で押さえ、確かめる様に軽く撫でてみては胸中で舌打ち。
隠せないほどでは無かったが悪化させるわけにもいかないだろうと判断し、苦笑いを浮かべながら困った様に動けないと告げればあからさまに青ざめる蓮介の表情に負い目を感じた。
(こんな顔させたくなかったんだけどなぁ……。)
助けたかったのは自己満足で、怪我をしたのは実力不足だ。
なのに何故、彼はこんな顔をするのだろう。
照らし合わせてみればいつかの思い出に良く似た状況。違うのは立場と規模だけの奇妙な偶然。
『あの人』も、もしかしたらこんな心境だったのだろうか。
だとしたら、目の前の彼は今あんな思いをしているのだろうか。
事実を突き付けられてしまえば悔しくて、だからこそ、情けなさを噛み殺して浮かべるのは笑顔だ。
結局九重悠にはこれしかないのだと、他ならない自分自身が知っていた。
「大丈夫だよ。」
「でも……」
「大丈夫だってば。それより、何か言うことない?」
「……ごめんなさい。」
「違うでしょ。」
「……?」
「俺、昔から言ってきたつもりだけど?」
出来る限り優しい声音で、からかうような口調を使う。これで少しでも安心してくれるだろうか。
少しは、罪悪感など消えてくれるだろうか。
「えっと……ありがとうございます。」
「ん、次は気を付けてね?」
次はお互い無事なまま助けてみせようと心に決めて、痛む足は早々に治すことにしよう。
彼の表情が曇らないように。そうでなければ意味がない。
何の事はない日常の一コマ。
理想ばかりが高くて遠い。それはとても惨めで悔しいけれど、もう少し、あともう少し頑張れば……いつかあの背中に届くだろうか。
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